あの峰の向こう まだ見ぬ世界へ・・・
隧道:字引によれば「すいどう」とも「ずいどう」とも。
今では公式にも専らトンネルと呼ばれる、黒子に徹する影の役者。 車窓の旅でも視界を遮るだけの厄介者だけれど、俯瞰して振り返れば、旅路を彩る名脇役。 (明治四十二年、鉄道院告示第五十四号による国有鉄道線路名称制定前後の線・本線の区別はしていません。 隧道名称は正式には「トンネル」であっても「隧道」で統一、必ずしも正式名とは限りません。 なお、竣工年と路線開通年の区別が確認できていないものは、便宜上後者で代用しています。 また、算用数字は漢数字にて代用統一しています。) |
春へ向かうトンネル 《平成25年1月下旬》 |
開通以来の煉瓦積み隧道が数多く残る中央本線。
狭隘区間では、隣接地への新隧道増設や長大トンネルによる路線の移設などで、ほとんどの区間が複線化されているものの、ここはいまだに単線のままです。 |
参考画像は昭和二十三年。
中山道に沿って形成された平沢の宿場町の家並みが美しいです。 それにしてもこの当時の日本の風景は、高い樹木が少ないことと疎らな集落が相まって、一見しただけではスイスかな、と見紛う様な景観だと感じます。 戦後の平和で人口が激増して、まぁそんな結果の一人(団塊の世代ではありません、その子供世代です)なのだけれど、所得倍増とか列島改造とか、豊かさと引き換えに様変わりした国土。 貧しさの反動が、こんな素朴な風景を消し去ってしまったのだろうか・・・ |
雪国へ 《平成25年2月中旬》 |
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 抱いていた小説「雪国」のイメージはこういうものだったのだけれど、川端が描いたのは闇夜の積雪の信号所。 そもそも抜けたトンネルとは上越線の清水隧道。 |
新幹線開通前(建設中)の、まだ高層建築物などなかった頃の湯沢の写真を、参考画像に選びました。
181系「とき」が最後の活躍をしていた時代です。 |
丹那隧道 《平成25年7月上旬》 |
大戦前夜の一大公共事業の金字塔。
坑口には偉業を飾る皇紀の数字。 しかしそれは、韓国併合によって増大する出稼ぎ朝鮮人の、劣悪な労働環境と低賃金の支えもあったことを、分け隔てなく感謝したい。 |
山中隧道 《平成25年9月下旬》 |
廃線跡も隧道自体も、まったく興味もなかったあの当時、今庄から山に分け入る県道を走りながら、不思議な感覚に陥った。
谷の中を一定の勾配を保ち、緩やかに弧を描く築堤の道。
それはまるで、汽車に揺られ眺める車窓のそれ。 帰宅後、ここが北陸線の線路跡だった事を知って後日再訪、以来こういう散策が好きになりました。 そんなきっかけになる、記念すべき一枚。 一連の隧道群の内、見通しのきかないものは、両坑口に信号規制を敷いての片側交互通行になっています。信号が赤に変わると随分と長い時間足止めを食らいます。 なお、この山中隧道は直線ではあるけれども距離が長く、途中の勾配変化で反対側は見通せないのですが、規制信号は設置されていません。 侵入前に隧道内をよく見、あるいは聞いて、対向車の気配のないことを確認しての「決行」が必要です。 |
今でも大事にしている昭文社:マップル全日本1:200,000道路地図。
北海道も含めての統一縮尺の道路地図って結構貴重なんです。
地理好きにっとっては宝物だと思うこの地図が出版されたのは平成十年。
当時はまだ、今庄から敦賀に抜けるにはこの道路が最短(国道四百七十六号木ノ芽峠は未整備、三百五号ホノケ山のトンネル開通はつい最近)だったのですが、ここが線路だった頃はどれほどの遠回りを強いられたことでしょうか・・・ 参考画像では、隧道の直上に数件の民家らしきものが確認できるのと、杉津側の線路下に、越前海岸まで広がる棚田の見事なこと。 わざわざお召列車を停車させただけの価値は、やっぱりあったのでしょう。 某国首相のちょっと前までの決まり文句、「美しい国」など、今はもう失われてしまったと思うのだけれど、戦前の日本の風景は相当美しかったのだろうと思う。 |
湯尾隧道 《平成25年9月下旬》 |
敦賀〜今庄間に比べると地味で知名度もないけれど、今庄駅のすぐ北側にも美しい隧道が、地域の生活道路として残されています。
ここも幅員と見通しの関係で、交互通行規制の信号機が両坑口に設置されています。 通学路の標識があったので、下校の自転車を待ち続けていたら、原付のおじさんが通り抜けて行きました・・・ |
公開されている戦後すぐの航空写真は、統治機構上、アメリカ軍(GHQ:連合国軍最高司令官総司令部)撮影のものになります。 それにしても当時は、平地は勿論、多少の傾斜地だろうが、ほとんどすべてが田圃。 中世以来の伝統的な日本の風景とは、こういうものだったのだろう。 壮観だ! まぁ、山は禿山だったかもしれないけれど・・・ |
矢ノ川隧道 《平成26年5月中旬》 |
紀勢本線の尾鷲〜熊野市(当時は紀伊木本)間は、その複雑険阻な地形の為、昭和の中期まで開業が遅れた区間。 鉄道開通前の一時期、鉄道省とその後の国鉄によって、その急峻な峠を縫って走る連絡乗合自動車が運転(それ以前にも大正期の道や索道を使った乗合自動車は存在)されていました。 昭和新道と呼ばれる新たな道路には、途中に五個の隧道が穿たれているのですが、この第五隧道は当時の縣知事の思い入れが伝わる、特別立派な造りになっています。 道はこの後、大正期以前の道筋と合流し、弧を描いて隧道上を横切り、素晴らしい見晴らしの矢ノ川峠へと至ります。 |
素掘り隧道 《平成26年5月中旬》 |
この矢ノ川峠への道は今では林道と呼ばれ、近年熊野市側は崩壊が進んで車両通行止めという有り様ですが、乗合自動車が走っていた頃は地域を結ぶ国道(当初は縣道津木本線→國道四十一号→百七十号→四十二号)。 路盤は所々当時よりも随分荒れているかも知れませんが、こんな素掘りの隧道もある砂利道を、ボンネット型のバスがガタゴト登って行った光景が、今も目に浮かぶような、そんな気分に浸ることのできる、時間の止まった空間です。 |
明治十四年 《平成27年9月中旬》 |
小刀根隧道は、日本人技術者による国内二例目の鉄道用隧道で、建設当時の姿を留めるものとしては国内最古。 明治十四年と言えば、維新の動乱は過去のものとなりつつも、まだまだ新政府の体制も完全には整いきっていない時期なのではないだろうか。 歴史的建造物や景観に全く無頓着な日本に於いて、これは稀にみる奇跡だ! |
参考画像は昭和二十三年。
右に柳ヶ瀬隧道、左に小刀根隧道、中央にはスイッチバック式の刀根駅が明瞭に確認できます。 付近は現在、鬱蒼とした森に囲まれた、薄暗い雰囲気の谷ですが、この当時は辺り一帯ほとんどが禿山。 豪雪地帯にもかかわらず、生活の為に薪を取り過ぎて、大木が育つ間もなかったのでしょう。 大変貧しく、そのうえ災害にも見舞われやすかったのでしょうが、俯瞰撮影に苦労する身には、何だかちょっぴり羨ましかったり・・・ |
阪急電車 《平成27年11月下旬》 |
これを会社側では隧道と認識しているのか、それはさて置き、ここが地下への入り口です。 関西初の試みを誇ってのことだと思う、坑口には 「天人併其功」の扁額と立派な鷲のレリーフ。 洋の東西、何でも貪欲に習い取り入れてきた日本人。 これも言わば洋中折衷の感あるけれど、時代と共にそれが歴史となり、今では未来にも誇れる先人の遺産。 現代人は何を残せる。 |
参考画像は昭和二十一年。
鉄路についてこれといった発見は見出せなかったものの、市内の家屋がまるでアニメかCGでも見ているかのような均整美。
いくつもの大火を潜り抜けてきたと言えど、長屋なのか一軒家(いわゆる町家)なのか、立派な屋根の住宅が整然と並んでいます。
これが京都古来の美しさなのか・・・ |
462段の階段 《平成28年2月上旬》 |
国境の山 《平成28年2月上旬》 |
一・二枚目は、下り線は隧道内となった土合駅にて。
三枚目は土樽側より。 |
参考画像は昭和五十二年。
土合駅が一番輝いていた頃でしょうか。
と言っても、上空から眺めただけでは今もそんなには違いはないかも知れません。 |
清水隧道 《平成28年2月上旬》 |
国内的にはあまりにも有名な清水隧道。
付け柱から両側に大きく張り出した翼壁を備えた姿は日本屈指。
残念ながら、今ではこちら(土合側)は出口専用になってしまい、車窓からは遠ざかる姿しか拝めない。 新幹線開通以来、通過列車は激減している事だし、ヨーロッパのように両方向の通行が可能なように改良して、臨機応変に団体の臨時列車など走らせれば良いのに・・・ |
この地域の古い画像は、あまり精緻な写りのものがなく残念です。 参考画像では、ループ線上段の湯檜曽駅(旧駅)から土合駅を経て、清水隧道坑口まで画角内に収まっています。 |
もぐら駅 《平成28年2月中旬》 |
ネットで色々調べていたら、「はくたか」が走っていた頃は、知る人ぞ知る話題駅だったようです。
160km/hで通過する「恐怖」が動画サイトで取り上げられています。
けれど、個人的には前出の筒石駅の方が「死」を間近に感じてしまう駅でした。
何といってもホームが狭い。
そして、厳格に通過中の立ち入りが制限されていないので、停車列車の撮影の合間に体験した恐怖は忘れられません・・・ でも、美佐島駅は綺麗な座敷の待合室完備の、そちらの観点で好感の持てる駅です。 |
隧道自体は昭和四十九年に竣工。
参考画像はその二年後なので、この山村風景の中に、良く分からないけれども場違いな施設らしきものが、今の美佐島駅舎のある場所を占領している。 ここは元々、東・中・西と三工区に分けて工事された内の、中工区の掘削現場で、営業時には津池駅となる予定の場所だったとの事。 そんな事情なら、当然立抗を駅施設に流用するまでの期間、保護する建造物があっても不思議ではないという事かな? 敷地内の、ただの影とは思えぬ暗さの長方形が気になります。 もしかして露天状態? その方面にはあまり詳しくないので、何れも想像の域を出ませんが・・・ |
第一大久賀隧道 《平成28年7月下旬》 |
この鉄道は、近くにあって(あった)遠い存在。
わたくしの生まれる前に廃止されてしまったので、その鉄道名自体馴染みがなかった。
近年、廃線跡にも興味を抱き、たまに地元の話題に挙がる設楽ダム建設地が、この沿線だと知ったのはほんの数年前。
そして、いよいよダム本体の着工が決まり、永遠に湖底へと眠る定めの、その前の姿を目に焼き付けようと、夏の寒狭川を遡りました・・・ (注:ダムが出来るのは終点駅のあった直前で、これらの隧道付近は下流域にあたるので水没は免れる可能性が高いと思われます。) |
鉄道休止前後を問わず、線路を詳しく観察できる写真は見付けられませんでした。
参考画像は完全廃止後の昭和四十五年撮影です。 |
第二大久賀隧道 《平成28年7月下旬》 |
後の時代の応急処置か、入り口は確かに当時の最新技術。
けれども暫く中へ進むとそこは・・・ 天然石剥き出しの手掘りの荒々しさ。 暗闇を照らす森を抜けてきた外光が、光と影の世界を造り、更に一層力強い作品に仕上がった。 |
銀河鉄道 《平成28年8月下旬》 |
参考画像は昭和五十一年ですが、この四十年でほとんど変化はありません。
只、温泉街北にあった真新しい大規模な宿泊施設が更地になってしまっている事と、小学校でしょうか、宇連川左岸にあった木造校舎や校庭らしきものが確認できる所も、今はもう只の空き地になってしまっています。
駅前の温泉街自体も、実際には大分寂しくなってしまっています。 |
飯田線廃線跡 《平成28年9月下旬》 |
その影の歴史によって知られる、平岡ダム建設に伴う水位の上昇に対処する為、遠山口駅と共に廃止になった区間。 時折漂う川霧と不意に射し込む日差しの妙で、思わぬ作品が撮れました。 けれど、山ビルにはご注意を! |
参考画像はこれまた昭和二十三年。
路線移設の要因となった平岡ダム(昭和二十六年竣工)は、今正に工事中。 作品の隧道の先には、ささやかながら耕作地が広がっているのが確認できます。 満島(平岡)駅周辺は、今と大きくは変わらない雰囲気ですが、ダム上流域には、現地を通る際には考えも及ばなかった居住地が広がっていたという事実を目の当たりにして、感慨深いところです。 なお温田方面へは、これといった車道はこの時期には通じていなかったように見え、ダム建設で川運は途絶え、飯田線が唯一の公共交通機関として、存在感が最高潮に達する時期を迎えた頃なのではないかと想像されます。 |
飯田線廃線跡 《平成28年9月下旬》 |
この区間は廃止時期が比較的新しいこともあってか、現役当時の遺構がほぼそのまま残されています。 落石除けの明かり区間を挟んで、画面背後に大崩隧道、奥が金毘羅隧道のようです。 |
参考画像は昭和五十一年。
前出の画像と比べると、色々な意味で時代の変化が見て取れます。 当該隧道近辺については高解像度表示でももうひとつはっきりと読み取れませんが、そもそもこの高解像度表示、何故か露出オーバーの画像が多いような気がします。 うがった見方をすれば、お金出して買えという事かなぁ・・・ |
廃線敷遊歩道 《平成28年10月中旬》 |
「けやきの道」最大の見どころがこの漆久保隧道。 天井に残る石炭のすすと架線の碍子。 明治・大正・昭和を駆け抜けた、歴史と記憶と思い出と・・・ |
参考画像は昭和五十二年。 貨物列車が明科方面から登ってきています。 スイッチバックは鮮明には読み取れませんが、潮沢信号所も確認できます。 少なくともこの頃には、放牧が行われていたような気配は・・・ありませんね。 |
三五山隧道 《平成28年10月中旬》 |
第二白坂隧道側から整備されてきた「けやきの道」。
最後に残ったのがこの三五山隧道。
無事整備完了で通れるようになりました。 漆久保隧道に比べ破壊が幾分進んでいるようで、内壁の一部は崩壊が激しい部分もあり、天井は保護膜で覆われ、幾分雰囲気を損なっています。 |
昭和五十二年カラー版の方が鮮明で美しいのですが、参考画像は昭和五十四年の白黒版。
こちらを選んだ理由は、新線の工事が始まっているのが確認できるから。 会田川の橋梁はほぼ完成しているように見えますが、隧道はこれからだったのでしょう。 竣工に十年を要したことになる大工事だったことが分かりました。 この区間の大規模な線路付け替えはどういった理由からだったのでしょうか。 いまだに単線のままのうえ勾配もほとんど緩和されていないし、甚大な地滑り被害なども、建設直後のもの(路盤開削による影響か)くらいではないのだろうか。 便利快適な旅も良いけれど、旅情は薄れて行くばかり・・・ |
閉ざされた時間 《平成28年11月上旬》 |
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消えゆく記憶 《平成28年10月中旬》 |
中央分水嶺の鳥居峠。
そこを貫く隧道は、鉄路も国道も現在は場所を移した二代目です。 鉄路の初代隧道は、現在は国道になっている奈良井川右岸を遡り、川を渡ったところで山塊に突入。 この区間の複線化に当たっては、単線の増設案もあったようですが、複線隧道の新設によって放棄されることになりました。 一方当時の国道は、この坑口頭上を横切って南下しながら更に高度を稼ぎ、旧鳥居隧道(昭和三十年竣工、五十三年新隧道に切り替え)に至りました。 |
参考画像一枚目は昭和五十一年。
鳥居隧道(国道初代)へ至る国道十九号が、綺麗なスロープを描いています。
現在の新隧道は、丁度建設途上の時期のようです。 移設された中央本線の線路跡が、幅広の道路へと生まれ変わりつつあるのが明瞭に確認できます。 二枚目は鳥居隧道(旧国道)開通前の様子。 明治二十三年開設の馬車道(旧々国道)は、中世以来の鳥居峠を隧道なしに越えていたことが窺い知られます。 |
碓氷第六隧道 《平成28年11月上旬》 |
一つ一つは美しく貴重な明治隧道も、ここではたくさんあり過ぎて返って興味が続きにくい。
そんな中にあって、この第六隧道は途中に明かり区間があって異彩を放つ。
橋梁の白眉が第三ならば、隧道のそれは第六で決まり! |
以下三回にわたって、参考画像は昭和二十一年六月十四日の一連の撮影。 一枚目は、第一隧道付近から熊ノ平駅までが確認できます。 画面中央に、「めがね橋」こと碓氷第三橋梁(拱橋)。 |
碓氷第十隧道 《平成28年11月上旬》 |
熊ノ平駅跡の横川側。
名称は正確か分かりませんが、手前がアプト時代の第十隧道。
奥の第三隧道は粘着運転への切り替え新線(後の上り線)。
そして間に飛び出すように口を開けている第二隧道は複線増設用の下り新線。 現地にはさらにもうひとつ、第十隧道の右隣に、スイッチバックの引上げ線の線路長確保の為の行き止まり隧道が残っています。 |
二枚目の参考画像は、第四・第五橋梁(拱橋)付近から第十三橋梁(拱橋)の少し先まで。 熊ノ平駅の様子が比較的詳しく確認できます。 駅脇の家屋は鉄道員の官舎かも知れませんが、東隣に広がる耕地と民家は、ここに代々安住の地を求めた家系があった証のようです。 なお、旧国道(正確には国道の旧道)の第十三橋梁付近は、現在は旧線跡を潜る手前で南にショートカットしています。 |
碓氷第一隧道 《平成28年11月上旬》 |
何とも美しい、弧を描いて上り行く路盤の先に、格調高い石積みの坑口抱く第一隧道。
何事も、始まりの印象というものは大事です! |
一連の参考画像最後は、横川駅を出てすぐの辺りから第二隧道付近まで。 峠へ向かう汽車が、今まさに坂道に喘ぎ始めたところです。 丸山信号所までは、早くから複線だったようです。 画像で一番目につくのは中山道の坂本宿。 この時代の日本の山村には珍しく、幾何学的に整備された街並や耕地は、確かNHKの「ブラタモリ」で経緯などを解説されていたと記憶しています。 |
新碓氷隧道 《平成28年11月上旬》 |
歯車式軌条の輸送力の限界を悟った国鉄が、検討の結果新設した粘着式新線。
無機質なコンクリート坑口に扁額を施したのは、その期待の大きさ故か。 それでも幹線鉄道としては異例の急勾配を残したことは、結果からすれば英断を下せなかった中途半端な決断。 特殊な解決策に頼ったことが結局、後の放棄廃線を招いた原因ではないのだろうか。 |
参考画像は昭和五十年。
まだまだこの地に新幹線が通るなんて、誰も想像しなかった時代の写真。 別荘地の風景は今も変わらず。 一番の変化は駅南側の、金持ち相手にゴルフにしか関心のなかったプリンスホテルか。 |
星越山隧道 《平成29年2月中旬》 |
星越山隧道の開通は明治二十一年。 当初の隧道(画像左にほんの少し覗く現下り線)は電化や弾丸列車計画断念、その後の新幹線工事などの紆余曲折で一時は放棄されたものが改修されて、歴史の浅い上り線よりも近代的な、特徴の乏しいコンクリート製になっています。 |
参考画像は昭和三十六年。
今では大規模に埋め立てられてしまった海岸線は、まだこの時期には太古以来の姿を留めていたようです。 個人的には地元民なのだけれども、この海岸線に沿って四車線の国道が造られた後しか知らない世代なので、ある意味新鮮に、またある意味懐かしくも鑑賞できました。 東海道本線は、上り線が、現在の新幹線が走っている路盤上を通っていた時期です。 |
鋼索隧道 《平成29年4月下旬》 |
戦争前夜 《平成29年4月下旬》 |
この辺りから頂上までが東洋一と謳われた急勾配。
一枚目の路盤の先には頂上駅が写っています。 二枚目の背景には、五十鈴川を渡る参宮線の汽車が写っているのですが・・・ |
参考画像は昭和二十七年。
方角的には気持ちの良くない画角ですが、当時既に線路が剥がされ休止状態の、朝熊線(鋼索線)の路盤や二つの隧道、山頂駅はもとより、中腹の朝熊岳道歩道橋も確認できます。 稜線上では宇治岳道や消失前の東風屋旅館。 頂上の社は光線の加減か、残念ながらはっきりとは存在が確認できません。 麓でも、今では里道に代わっている朝熊線(鉄道線)が明瞭に判読できます。 |
大正ロマン 《平成29年4月下旬》 |
朝熊岳道歩道橋からも垣間見られる第一隧道付近は、幾らか勾配は緩やかです。 通常は超広角での撮影が多いのですが、これが最後と、真っ暗闇の中レンズ交換して、比較的長い隧道を望遠レンズで切り撮ってみました。 |
宇宙線観測所 《平成29年5月中旬》 |
今でもそれほどの廃線マニアではないけれど(信じられないかもしれませんが、誓っても廃墟自体には興味がありません。)、数年前に、現在の新線越しに恵那山が綺麗に見えないものかと散策途中に、何となく気付いたのです。
県道沿いの高みの平場は線路跡じゃないかと・・・ 煉瓦積みの橋台跡を見つけ思いは確信へ。 当初の目的とは裏腹に、反対方向の藪へと歩み坑口発見! 随分とうらぶれた雰囲気ではあるものの、洞内入り口に看板あり。 「名古屋大学理学部 坂下宇宙線観測所」 当初の目的を果たしたのかどうか、論文を読むほどの興味はないので不明ですが、観測は終了して放置状態。 飛ぶ鳥跡を濁さず・・・とはいかなかったようです。 |
参考画像は昭和二十二年。
残念ながら、解像度は良くありません。 |
高野線の旅 《平成29年8月中旬》 |
高野線の最終区間、紀伊神谷駅を出てすぐの大迫隧道。
ホーム先端からは、急勾配を下って来る列車を望むことが出来ます。 余談ですが、紀伊神谷駅周辺の三駅は有人駅で自動改札も備えられていますが、切符の販売はしていないとのことでした(列車に乗車の場合は、窓口に常備の乗車証明券で入場)。 よって、撮影だけの目的での入場はできません。 |
それなりの解像度で選んだ参考画像は昭和五十一年。
当時も今も、木々の成長以外は大きな変化は感じられません。 |
スイッチバック遺構 《平成30年4月中旬》 |
狭軌時代は連続スイッチバックでその名を馳せた板谷峠。
標準軌間への改軌でいち早く廃止されたのが赤岩駅の関連施設。
画像は駅ホームの先にある待避線の末端部。
限られた平地での施設敷設が不可能だった為、隧道を穿いて線路長を確保していました。
現地の銘板によれば竣工は昭和四十二年。
翌年の複線化・電化交流切り替えに備えて増強された施設の様です。 |
現在の地理院地図にも未だ地名の残るイラ窪や李平。
建物記号も散見されるものの、現地は今や森林生い茂る無人地帯。
そんな赤岩地区がまだまだ元気だった頃の昭和五十一年の画像。
スイッチバックの状況が克明に確認出来るのは当然として、松川対岸にこれほどはっきりとした集落があった事には驚きです。
今回現地にて、松川橋梁寄りの青い屋根の民家の廃墟を偶然確認しました。
又、赤岩駅への降り口付近、画像上端の比較的大きな建物は、こちらでさえも現在では定住者の存在が怪しい、大平地区にあった分校と思われます。 |
旧線銀座 《平成31年3月上旬》 |
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