築山殿私考
徳川家康の正室・瀬名姫(一説に鶴姫)は、関口義広の娘で、今川義元の姪にあたる。
弘治3年(1557年) 今川家の人質だった松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚。
永禄2年(1559年) 竹千代(松平信康)を産む。
永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の合戦で、今川義元が討たれ、松平元康(元信から改名)は岡崎に帰還。
永禄5年(1562年)
松平家康(元康から改名)が信長側についた咎めを受け、関口義広は今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害。
松平家康と織田信長による清洲同盟が成立。
松平軍の捕虜となった鵜殿氏長、鵜殿氏次との人質交換によって、瀬名姫は子供達と共に駿府城から家康の根拠地である岡崎へと移った。
しかし、
瀬名姫は岡崎城に入る事は許されず、岡崎城より東外れにある、惣持尼寺の西側に建てられた屋敷に留め置かれる事となった。
総持尼寺のあった近隣一帯の地名を築山と呼んでいて、その地名に因み、瀬名姫は以後、築山殿と呼ばれるようになった。
右側の赤く塗った場所が、築山という地名の場所で、左側の岡崎城主要廓から見ても、相当距離のある場所である。
総持尼寺は昭和2年に、現在の甲山中学校東側の境内へ移転したが、旧境内地は、籠田公園南側の緑道沿いの東側、NTTがある位置である。 寛文10年(1670)には岡崎城主・水野忠善によって、籠田総門枡形を造る際に、総持尼寺の鎮守社である築山稲荷の小丘が削られたりしている。 築山稲荷も総持尼寺と共に移転し、現在は本堂の西側にある。 |
【西岸寺】 籠田緑道を挟んで、NTT駐車場の西側にある。 この近辺が築山殿屋敷跡にあたる。 |
【総持寺】 明治8年までは尼寺であったが、それ以降は男僧が住持となった為、 現在は総持寺と呼ばれている。 本堂の隣り、赤く塗られた祠が築山稲荷である。 |
永禄9年(1566年)、朝廷の許可を得て、家康は松平姓を徳川姓に改め、以後は徳川家康を名乗るようになる。
永禄10年(1567年)
5月 竹千代は信長の娘である徳姫と結婚。
6月 家康は浜松城に移り、竹千代を岡崎城主とした。
7月 竹千代は元服して、信長より「信」の一字を与えられ、松平信康を名乗る。
(しかし、やはり築山殿が岡崎城内に入ったという記録は無く、むしろ、姑にあたる徳川家康生母・於大の方から疎まれていたという説も有る)
天正3年(1575年)松平信康は、17歳で長篠の合戦で初陣を飾る。
天正7年(1579年)松平信康は岡崎城主の地位を追われ、二俣城にて切腹。築山殿も殺害された。
信康室・徳姫(五徳姫)が父・織田信長に宛てた書状が、直接の発端となったと言われている。
家康からの使者・酒井忠次に対し、信長は「信康を殺せ」と言ったわけではなく、「家康の思い通りにせよ」と答えている。
信長は家臣に対しては厳しいが、身内や親族関係となった者に対しては贔屓過ぎるほど甘い部分がある。
信長は娘婿である松平信康を殺させる気はまったく無く、それよりも、
家康側の事情によって、築山殿と信康を葬り去ったのではないだろうか。
家康の祖父・松平清康は家臣によって殺害され、父・松平広忠も家臣によって殺害された説がある。
また家康自身も、竹千代時代に人質として今川家へ送られる途中、家臣の裏切りによって、
今川家と対立する織田家へと送られて、その人質となっている。
三河家臣団の動きの中に、浜松に進出してしまった家康よりも、岡崎に留まっている信康を奉戴して、
主君を入れ替えようとする計画があり、信康はそれに巻き込まれていったのではないだろうか。
築山殿殺害は、それへの連座というよりも、三河家臣団の内部からの口封じのような動き、
家康としては追放くらいで良いと思っていたところを、「家康の為」という大義名分を盾にとっての殺害。
武田氏への内通などは、後付けのもっともらしい理由付けであったのではないだろうか。
8月3日 家康は浜松から岡崎城に入った。
8月4日 家康・信康父子は論争をして物別れとなり、信康は当時既に廃城となっていた碧海郡大浜城へ移された。
8月5日 酒井重忠が預かっていた西尾城へ弓・鉄砲衆を増員し、家康も西尾城へ入った。
(大浜にいる信康に向けての威圧行為でもあり、岡崎家臣団に不穏な動きがあったのではないだろうか))
8月7日 家康は西尾城より岡崎城に戻った。
8月8日 家康は織田信長の近臣・堀秀次に書状を送って、信康の追放を知らせた。
今度、左衛門尉(酒井忠次)を以申上候処、種々御懇之儀、其段御取成故候、忝意存候、仍三郎(信康)不覚悟付而、去四日岡崎を追出申候
猶其趣小栗大六(重常)・成瀬藤八(藤八郎国次)可申入候、恐々謹言 (天正八年)八月八日 家康公御判 堀久太郎(秀政)殿
『信光明寺文書』
8月9日 信康を碧海郡大浜より遠江国堀江城へ移す (後に信康は堀江城より二俣城へと移されている)。
8月10日 家康は、西三河の家臣を岡崎城に集め、信康に内通しないよう起請文を提出させた。
『岡崎東泉記』 岡崎・投(なぐり)町、若宮并観音由来。 元禄六年に再興有し并鳥居北向に成立、昔此所根石原と云、則観音堂有り、天正七年の比岡崎三郎信康公、同御母築山殿御生害に付、 信長公・家康公より御吟味あり、御家中親子方迚 家康公信長方、信康公は勝頼方也、 御家中勝頼公逆心無之旨身血にて起請文を書申迚、投村、但其此は大塚村と云、此観音之前にて書けり、今の東之方田之処其比野に而、 此所にて書し、其後三郎信康公同御袋築山亡魂、御城へ色々けざみありし、諸寺院に而御祈念御弔ありしが静かならず、 此時観音堂森之内に若宮八幡を勧請被申達、御袋様は四十間北に神明を勧請申奉候へば、終をさまり、 此以後若宮八幡又起請宮云、 神明は岡崎城主水野監物忠善殿御代正保時代、掛山に移奉る |
【若宮八幡宮】 松平信康首塚 『岡崎東泉記』に、岡崎城内で信康と築山殿の祟りがあって、 それを鎮める為、仁徳天皇を祭神として若宮八幡を勧請したとあり、 天正七年以降の鎮座であるが、その鎮座がいつであるとは明確にされてない。 信康と築山殿の死が家康の発意によるものだとしたら、 2人の首が尾張に送られる事も無く(信長が首実験をしたという記録も無い)、 また、浜松城へいる家康の元へ送られる事も無いであろうし、 まして岡崎に首を葬る理由も無い。 信康と築山殿の首塚は、どちらも昭和52年に建てられた、供養塚であると思う。 (ここを首塚に擬すのは幕末以降の郷土資料による) |
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【祐傳寺】 築山殿墓 『岡崎東泉記』に、「御袋様は四十間北に神明を勧請申奉」とあるのは、 この墓(供養塔)の事ではないだろうか。 ここに廟を建てて築山殿を祀っていたが、 正保3年(1646年)に水野忠善によって、掛山(欠山)へ移されたとあり、 その跡地に供養塔を建てたものではないだろうか。 |
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【八柱神社】 築山殿首塚 昭和9年に、欠町広見西通りにあった八柱神社が現在地に移転する際、 そこにあった築山神明宮を、本殿に合祀したとある。 信長や家康が首実験をしたという典拠はなく、 これも昭和52年に建てられた供養塚であると思われる。 |
8月13日 家康は岡崎城から浜松城へ戻り、新たな岡崎城留守居役として本多重次が任命された。
8月29日 築山殿、遠江国富塚で殺害される。
9月15日 信康切腹させられる。
【太刀洗いの池】 浜松市中区富塚町 太刀洗の池は、この南10メートルくらいのところにあった。 昔はこの一帯は藪に覆われ、約50平方メートルほどの池であった。 徳川家康の正室は、今川義元の家臣・関口刑部少輔義慶の妹で 岡崎の築山にちなんで築山御前と呼ばれたが、政略の犠牲となって 岡崎城から浜松城へ向かう途中、佐鳴湖岸小藪で家康の家臣に殺害された。 ときに天正7年(1579年)8月29日、築山御前38歳であった。 このとき血刀をこの池で洗ったので、その水が涸れたが、 延宝6年(1678年)の百年忌の法要が行われてから清水に戻ったという。 築山御前は西来院に葬られた。 この谷一帯を御前谷という。 |
西来院内にある、築山御前の墓・「月窟廟」 昭和20年の戦災によって焼失したが、昭和53年の四百年忌に再建された。 |
松平信康が切腹をした二俣城跡。清瀧寺は近い。
清瀧寺の後山にある松平信康廟。覆屋の中央に五輪塔が納められ、地下には遺骸が葬られている。
松平信康廟の傍にある墓標 青木又四郎吉良吉継
中根平左衛門正照(三方が原合戦での戦死者) 大久保七郎右衛門忠世(二俣城城主) 吉良於初(信康に殉死) |