死闘!鍵屋の辻
しかし安藤次右衛門は、
過去に親戚である高崎藩安藤家が、池田家から受けた恥辱の仕返しの意味もあって 近藤登之助貞用や兼松又四郎、加賀爪甲斐守直澄らの旗本仲間と結集してこれを拒否し、河合又五郎を庇護。 更には播州佐用の地にて、
河合半左衛門と又五郎の父子を交換すると池田家を謀り、旗本領の安全地帯に、父子の身柄を確保してしまった。
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※当時は正面の道は無く、T字になっていた。 |
又五郎の一行を待ち伏せる為、 渡辺数馬と荒木又右衛門は万屋へと入り、岩本孫右衛門と河合武右衛門は鍵屋へ入った。 旧暦でいう11月の早朝の寒いなか、やがて長田川の橋に現れた又五郎一行の先頭は、 又五郎の妹聟で、大阪の町人虎屋九左衛門が馬に乗って前駆をつとめる。 それに続いて、馬上に桜井半兵衛。 槍持ちの三助、半弓を勘七、市蔵と、3人の小者を従え、小姓・湊江清左衛門を傍に歩かせ、 続いて、馬に乗って河合又五郎。喜蔵という小者に槍を持たせて従え、 川合甚左衛門も馬上にあり、小者を2人従え、これで合計11名。 やがて河合甚左衛門が、万屋の角を曲がろうとしたとき、 荒木又右衛門は万屋から飛び出し、あっという間に、待ち伏せに気付かないままの甚左衛門の右脚を斬り落としてしまった。 不意打ちに対抗することも出来ず、川合甚左衛門はそのまま馬から落ちる。 落ちたところをそのまま眼にも留らぬ早業で、刀を抜くひまも与えず、 切り込んで、一瞬のうちに甚左衛門を切り殺してしまった。 小者2人が驚いて腰を抜かしているうちに、荒木又右衛門は、既に角を曲がった桜井半兵衛を追いかけて走った。 荒木又右衛門が万屋を飛び出したのを合図に、 渡辺数馬も、岩本孫右衛門と河合武右衛門も、それぞれに敵へ向かって飛びかかっていった。 |
「みぎいせみち ひだりならみち」文政13年(1830年)と刻まれている。 材木が置いてある場所に鍵屋という茶店があった。 |
甚左衛門の絶命の声を聞き、河合又五郎も馬から下りて、万屋から追い縋った渡辺数馬と対峙。 |
万屋の跡地に、「数馬茶屋」と名を改めて茶店が再興され、現在でも茶や菓子、食事を供している。 |
事件より3日後くらいまでの間に、重症であった桜井半兵衛と三助が死亡。 それによって、渡辺数馬側の死者は、 又衛門の弟子・河合武右衛門1名。重傷者渡辺数馬、岩本孫右衛門。(荒木又衛門はごく軽傷) 又五郎側の死者は、 河合又五郎、河合甚左衛門、桜井半兵衛、及びその槍持ちの三助で、合計4名。重症が湊江清左衛門、軽傷は半弓持ちの勘蔵。 川合又五郎の墓は上野の寺町万福寺にある。 |
数馬茶屋では、荒木又衛門が仇討ちの朝、茶屋の主人に蕎麦と目刺の鰯を注文しましたが、緊張している渡辺数馬に 「今日の首尾を祈って、傍(そば)でゆわす(又衛門の出身地伊賀の方言で成就する)は目出度いことだ」 と語り、今でも数馬茶屋の定食「祝膳」には、蕎麦と鰯が付いている。 |
河合又五郎の切り取られた首を洗った池と伝えられている。 |
世間の注目を浴びるなか、渡辺数馬と荒木又右衛門、並びに岩本孫右衛門は、津藩の藤堂家に4年間も預けられた。 池田忠雄の遺児・光仲を藩主とする鳥取藩は、渡辺数馬と荒木又右衛門等のもらい受けを要求。
これに対し、 又右衛門が仕官していた大和郡山藩も、又右衛門の帰参を願い出て対立。 最終的に、寛永15年(1638年)8月、3人は鳥取藩へ引き取られるが、 鳥取へ到着の17日後、鳥取藩は荒木又右衛門の急死を公表。41歳。 あまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。 渡辺数馬も、 それから4年後の寛永19年(1642)12月2日に、鳥取にて35歳の若さで亡くなっている。 岩本孫右衛門は71歳まで長命であった。
世間がこの仇討ちに注目したのは、数少ない仇討ちの成功例としての他に、大名対旗本の代理戦争という意味も有ったが、 当時御留流といわれ、他流との試合を禁じていた剣術・柳生心陰流に対する興味もあった。 荒木又衛門は柳生心陰流の使い手で、後年36人斬り等、鍵屋の辻での死闘は誇張されていく。 やがて忠臣蔵と並び、三大仇討ちのひとつとして祭り上げられていく事となる。 |