K/Mと森のフシギの物語


慶応3年(1867年)4月15日、南方熊楠は和歌山城下で、金物商を営む南方弥兵衛の二男として生まれた。
子供の頃から好奇心旺盛で、
植物採集に熱中するあまり度々山中で数日行方不明となり、人々は天狗にさらわれたとし、「てんぎゃん(天狗さん)」とあだ名で呼んでいた。

柳田国男をして、「日本人の可能性の極限」と言わしめ、
博物学者、生物学者(とくに菌類学)、民俗学者。菌類学者としては粘菌の研究で知られている。



南方熊楠は、アメリカ、キューバ、イギリスと、海外で15年間におよぶ独自の研究生活を送り、明治33年(1900年)に帰朝。
以後は和歌山県内に住み、
明治37年(1904)年からは田辺市に定住して、亡くなるまで37年間の後半生をこの地で過ごした。
その間、粘菌や民俗の研究に没頭し、神社合併反対運動など自然保護などにも尽力し、
また、たいへんな奇人変人とみられていた反面、「南方先生」とか「南方さん」と呼ばれて、町の人々に親しまれた。

昭和4年6月には、昭和天皇へ粘菌の御進講もしている。



大正5年(1916年)
4月。今まで借家住まいであった熊楠は、中屋敷町36番地にある土地家屋を、弟の南方常楠の名義で購入。
宅地は400坪と大変広く、2階建ての母屋の他に、土蔵と貸家2軒などがあったが、
前に住んでいた借家に建てた「博物標本室」を更に移築し、書斎とした。
庭は植物研究園とし、亀やカエルなどの飼育の場所とした。

現在の南方熊楠邸には、貸家2軒はなく、母屋と土蔵と書斎は熊楠が利用したものが保存されている。

書斎には熊楠が愛用した机が置かれてあり、
この机は、顕微鏡を除くのに便利なようにと、手前の2本の足が短く切られ、傾斜がつけられている。
熊楠はこの書斎で隠花植物(菌類、地衣類、藻類、蘚苔類)や粘菌などの標本を作り、
菌類の彩色図を描き、英語で論文などを書き、日本語で書簡などを書いていた。
当時、書斎を熊楠が使用していたときには、
顕微鏡やら書籍やら書きかけの原稿やらで、自分が坐る場所以外は足の踏み場もないほどに散らかっていたという。
土蔵は2階に分かれていて、1階は書庫として使われ、2階は動植物の標本室として使われていた。


現在は、南方熊楠顕彰館の施設として公開されている。 



母屋にある居間は南に面しているので、明るく風通しが良い。机の他にも、標本器材など、そのままの形で展示されている。
井戸のある納屋があったり、当時の面影を残すように手が入れられて、懐かしい親戚の家のようだ。



南方熊楠は、不思議な体験談をよく書簡の中に残している。



・・・・・このようにして帰朝してもまったく歓迎してくれる人もないので、「故郷やあちらを見ても梨の花」、
熊野の勝浦、それから那智、当時は英国から帰った小生にはじつにズールー、ギニア辺以下に見えた蛮野の地に隠居し、
夏冬浴衣に縄の帯して、山野を跋渉し、顕微鏡と鉛筆水彩画と紙だけが個人的財産で、
月々家の弟からの20円のあてがいで、わびしくもまたおかしくもどれほどかの月日を送っていた。
外国にあった日も熊野におった夜も、かの死に失せてしまった2人のことを片時も忘れず、
自分の亡父母と、この2人の姿が昼も夜も身を離れず見える。
言語を発しないが、いわゆる以心伝心でいろいろのことを暗示する。
その通りの所へ行って見ると、その通りの珍物を発見する。それを頼みに5、6年極めて静かで奥深い山谷の間に仮住まいした。
これはいわゆる潜在意識が周囲の環境のさびしいままに自在に活動して、
あるいは逆行した文字となり、あるいは物のかたちを現じなどして、おもいもかけぬ発見をなす。
外国にも生物学をするものにこのような例がしばしばあることは、マヤースの変態心理書などに見えているので、
小生は別段怪しくも思わない。
これを疑う人々に会う度に、その人々の読書だけして自らその境に入らないのを憐れみ笑うだけである

                                                            『昭和6年8月・岩田準一へ宛てた手紙』



小生が24年前帰朝したときまでは今日の南洋のとある島のように、人の妻に通ずることを普通のことと心得ているところがある。
また年頃の娘に米1升と桃色のふんどしを添えて、所の神主または老人に割ってもらうところがある。
小生みずからも、17,8の女子が柱に両手を押し付け、図のような姿勢でいたのを見て、
飴を作るのかと思っていたが、幾度その場所を通るもこの姿勢のため、何のことかわからず怪しんでいると、
若い男がくじでも引いたのか、俺が当たったと呟きながらそこへ来て、後ろからこれを犯すのを見たことがある。
また熊野の3個の最難所といわれる安堵ヶ峰に40余日、雪中に木の小屋に住み、菌類を採集中、
浴湯場へ14,5の小娘が子供を背負って来たが、若い男を見れば捕まえて「種臼斬ってくださんせ」と迫る。
何のことかわからなかったが、女陰を臼に譬えたことは仏経にも多く例があるので、種臼とは子をまく臼ということと悟り申した。

                                                                  『矢吹義男氏に宛てた書簡』



明治41年(1908年)
6月。中辺路町水上へ行き、3泊して苔類などの採集をおこない、
その帰りに、裸で採集用具を持ち、供の者たちと共に奇声をあげながら、山をかけ下りたので、
熊野川(田辺市伏菟野)で田植をしていた女性たちが、天狗でも降ってきたのかと驚き、泣き叫んで逃げたという逸話がある。

11月。田辺を出発して栗栖川、近露を通り、川湯温泉に滞在して付近の谷々を歩き、
また、北山川をさかのぼって、瀞峡から奈良県の玉置山に登った。
その下山途中で道に迷い、山中に野宿した上、本宮、川湯を経て帰宅し、約1ヵ月間の採集旅行となった。


明治43年(1910年)
8月。神社合祀反対運動として、田辺中学校での講習会に出席した県の役人・田村某に会おうと会場を訪れたところ、
入場を阻止されたのでかっとなり、酒の酔いも手伝って、持っていた標本の入った信玄袋を会場内へ投げ込んだ。
このことから「家宅侵入罪」で連行され、18日間未決で拘置所に入れられた。
結局無罪で釈放となったが、その間本を読み、拘置所構内で粘菌を見つけたりした。

11月。中辺路町兵生から入って、西牟婁・日高の郡境にある安堵山の山小屋に40日余り宿泊し、隠花植物の採集に従事。
少し離れた奈良県境の果無山系で、珍しいコケの群生を発見している。

次第に学者や著名人の来訪が多くなり、また執筆活動が多忙を極めたこともあって、野外の植物の研究は自宅の庭で行うことが多くなった。



・・・・・その頃は、熊野の天地は日本の本州にありながら和歌山などとは別天地で、蒙昧といえば蒙昧、
しかしその蒙昧なのが、その地の科学上きわめて尊かった所以で、
小生はそれから今まで熊野に留まり、おびただしく生物上の発見をなし申した。

例を挙げると、ただ今小生が唯一の専門のように内外の人が思う粘菌などは、
東大で草野俊助博士が28種ほど集めたのに過ぎなかったのを、小生は115種ほどに日本の粘菌の総数を増やし申した。
その多くは熊野産である。
さて、知己の諸素人学者の発見もあり、ことに数年来小畦氏が発奮して採集に集中してから、ただ今、日本の粘菌の総数は150余り、
まずは英米2国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなっている。
                                                                     『矢吹義男氏に宛てた書簡』



粘菌が原形体として朽ち木枯れ葉を食いまわる事やや久しくして、
日光、日熱、湿気、風などの諸因縁に左右されて、今は原形体でとどまることができず、
原形体がわき上がり、その原形体の分子たちが、あるいはまず「イ」なる茎となり、
他の分子たちが茎をよじ上って「ロ」なる胞子となり、
それと同時にある分子たちが「ハ」なる胞壁となって胞子を囲う。
それと同時にまた「ニ」なる分子たちが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、
風などのために胞子が乾き、糸状体が乾いて折れるときはたちまち胞壁が破れて胞子が飛散し、
もって他日また原形体と化成して他所で繁殖する備えをする。
このように出来そろったのを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。
しかしながら、まだ乾かないうちに大風や大雨があると、
一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけた諸分子が、たちまちまた跡を潜めてもとの原形体となり、
災害を避けて木の下とか葉の裏に隠れていて、天気が回復すればまたその原形体が再びわき上がって胞嚢を作るのだ。
原形体は活動して者を食い歩く。茎、胞嚢、胞子、糸状体と変化しそろった上は少しも活動しない。
ただ後日の繁殖のために胞子を擁護して、好機会を待って飛散させようと構えているだけである。

ゆえに、人が見て原形体といい、無形のつまらない痰様の半流動体と蔑視されるその原形体が活物で、
後日の繁殖の胞子を守るだけの粘菌はじつは死物である。
死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もないため、原形体は死物同然と思う人間の見識がまるで間違っている。

すなわち人が顕微鏡のもとで眺めて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと喜ぶのは、
じつは活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、
一旦、胞子、胞壁に固まろうとしかけた原形体が、またお流れとなって原形体に戻るのは、粘菌が死んだと見えて、
じつは原形体となって活動を始めたのだ。
                                                              『昭和6年8月・岩田準一へ宛てた手紙』



庭をめぐると、安藤みかんの実が、庭にひとつ落ちていた。
元々は旧田辺藩士・安藤治兵衛の屋敷内に自生していたので、安藤みかんの名がある。
安藤みかんは、そのまま剥いて食べるよりも、中の実が柔らかい為、ジュースにするのが向いているらしい。
田辺市中屋敷町の南方熊楠邸にも当時、安藤みかんの木が3本植えられていて、
熊楠は、グレープフルーツのようなこのみかんの味を好み、1日6個分の果汁を搾って飲んでいたという。
国内で外国人が宿泊するホテルや旅館に置いてもらい、特産品にしようとしたが、実が傷みやすいこともあって成功しなかった。
熊楠が亡くなってから1年後、3本の木は枯れてしまったが、熊楠は親交のあった人に苗木を分けていたため、各地に木が残った。
現在、南方熊楠邸に植えられている安藤みかんの木は三代目で、樹木としての寿命は大体30年前後らしい。
白浜町の南方熊楠記念館にも安藤みかんは植えられている。

庭には他に、柿や楠、栴檀などが植えられている。

庭の中央にある柿の老木も、それと知らなければ只の柿の木だが、
大正6年(1917年)8月、
この柿の木の、1.4mほどの高さにある窪みから、南方熊楠は新種の粘菌を発見。

この粘菌は、大正10年(1921年)にイギリス菌学会々長グリエルマ・リスタ−によって、『ミナカテルラ・ロンギフィラ』と命名され発表。
南方熊楠55歳のことである。



楠は、熊楠が住んでいた当時からすでにあった木で、現在では30m近くに成長し、街中からも一際目立つ。
「炎天にも熱からず、屋根も大風に損せず…と熊楠が讃えた木」と、熊楠邸の説明板にある。

和歌山県海南市にある藤白神社の御神木は楠。古来より「子供の神様」としての信仰があり、
子供が生まれると、親は命名に先立って藤白神社に参拝し、子供の長命・出世を祈願して「楠・藤・熊」の名を授かる風習がある。
南方熊楠の名も、この神木への信仰に依る。


栴檀は、白檀の中国名で、「栴壇は双葉より芳し」という場合、栴壇とは白壇の事を言う。
日本では、樗(おうち)の木のことを指すが、樗の木が獄門に使われるのを忌んで、栴檀の名を当てるようになったと思われる。
5月中旬〜6月上旬に、薄紫色の花を咲かせる。
熊楠邸に現在あるのは、戦後に植えられた二代目。


臨終の床で熊楠の最後の言葉は、


「天井に紫色の花が咲いている。医者は呼ばないでくれ。医者が来ればこの美しい花は消えてしまうから。」


昭和16年(1941年)12月29日、萎縮腎を患い自宅にて死去。墓地は和歌山県田辺市内の高山寺にある。



新宮市には孝元天皇の御代、秦の始皇帝の命を受けた徐福という道士が日本に来朝したという伝説がある。
徐福が日本に来た目的は、始皇帝の為の不老不死の仙薬を見つける事で、最終的には秦国へ戻らずに日本へ帰化している。
その仙薬の材料となるのが烏薬で、特に薬効の高いものを天台烏薬としている。
烏薬を粉末にし、干菓子としたものが、新宮市内の福田屋で売られている。


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