思へば 此世は常の住処にあらず 草葉に置く白露 水に宿る月より猶あやし
金谷に花を詠じ 栄花は先立て 無常の風に誘はるる 南楼の月をもてあそぶ輩も 月に先立つて 有為の雲に隠れり 人間五十年 化天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか |
安土の城跡を訪ねる
天正4年(1576年)1月中旬、織田信長は天下布武の本拠地として、近江国の安土山に築城を命じた。 |
家臣たちは安土山内に屋敷地を与えられ、諸工事の監督をするとともに、各自が邸を造営する事となり。 城下大手門から本丸黒金門までへ続く大手道の両側に、 羽柴秀吉邸や前田利家邸などが建造され、安土山周囲とその上部を囲い込むようにして、多くの屋敷群が形成されていった。 城の普請は、石垣と天主の建造を第一として進められ、天正7年に天主が完成し、信長は5月11日に天主へと移り住んだ。 全体の完成までに更に2年掛かり、 天正9年(1581年)9月、信長は工事関係者に褒美の品を下賜している。 |
実際に行ってみると、石段をかなり登っていかねばならず、水の便の悪い場所で、井戸なども無く、篭城には向かぬ場所である。 実際の戦闘を考えて作られたというよりも、信長の威勢を諸国に示すために作られた、言わば「飾りの城」である。 守るには難しい城である。 |
黒金門内には、信長の住む天主と渡殿で接続して、天子の行幸を迎える為に、内裏清涼殿を模した本丸御殿(南殿)があり、 本丸御殿の対屋として、三の丸に江雲寺御殿があった。 二の丸御殿は、信長が天主と行き来して使用していた御殿であったと思われ、実質的な本丸としての用途に充てられていた。 更には総見院という禅宗寺院も安土城内に有った。 |
天正10年(1582年) 6月2日 本能寺の変起こる。織田信長死去。 6月3日 信長の妻妾子女等が安土城より出て、日野城(蒲生賢秀城主)へ避難。 6月5日 明智光秀が安土城へ入る。 6月8日 明智光秀は坂本城へ戻り、留守居役として娘婿の明智秀満が安土城に残る 6月9日 明智光秀、京都に移動。 織田信雄、伊勢より進軍し、土山(滋賀県甲賀市)まで到着。 6月13日 山崎の合戦で、明智光秀は羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、敗走 6月14日 明智秀満、全軍を率いて安土城より出て、坂本城へ移動 安土城炎上 安土城天主より出火、本丸御殿、二の丸御殿類焼(黒金門より内廓)。 他の部分は焼失せず。 (現在では、明智秀満の退去と、織田信雄入城までの間、無人となった城内への、土民による略奪の放火説が有力視されている) 6月15日 安土城に、織田信雄が入る。 それ以後、 二の丸御殿跡地に秀吉が、信長の一周忌の後に廟を建造し、 信長の嫡孫・三法師(織田秀信)が安土城仮御殿へ入り、天正12年に坂本城へ転居するまで、織田家の城として残った。 天正13年(1585年) 羽柴秀次によって、城内に残る建物・石垣・城下町に到るまですべて、八幡山城へと移築され、安土城はついに廃城となる。 |
本能寺の変を経てなお3年、安土城は残ったのである。 天主址の石垣から北方を望むと、 昭和期の干拓によって、琵琶湖は遠くなってしまっているが、それでも琵琶湖を越えて遠くの山々まで見渡す事が出来、 今の世でも、気宇壮大な織田信長の息吹きを感じ取る事が出来るのではないだろうか。 |