四つ頭茶会
栄西禅師八百年御遠忌の一環として、京都東山・建仁寺で行われた観月の茶会へ参加してきました。
食事の前に、全員で五観文(ごかんもん=五観の偈)を読み、法話を聞く。 鎌倉時代に栄西禅師によって書かれた 「喫茶養生記」のなかで、茶とともに桑の効用が述べられている。 |
本膳貼案 先付 桑豆腐 山葵醤油 猪口 六条揚麩 抹茶和え 八寸 舞茸菊花和え 三つ葉 いが揚げ 渋皮栗 擬製豆腐 松葉牛蒡 いちょう南瓜 むかご 銀杏 紅葉麩 平椀 巻き湯葉 松茸 蓮芋 パンプキン麩 柚子 すまし仕立て 椀物 茶そば 焼き茄子 松葉三度 蒸物 桑百合根饅頭 菊花 葛引き つゆ生姜 汁椀 泥亀汁 飯椀 松茸ご飯 香の物 湯斗 水物 グレープフルーツ羹 梨 大本山建仁寺御用達 精進料理 矢尾治謹製 |
矢尾治というのは堀川高辻南にある精進料理専門の店との事。 |
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お正客4人と、それに各々相伴客が8人付き、全員で36名がお茶の接待を受ける。 部屋の正面には栄西禅師の肖像画が掛けられ、その両側に蒼龍・白虎の軸が掛けられる。 その前には三つ具足(燭台・香炉・花立)が置かれ、部屋の中央にも香炉が置かれる。 客一同が着座すると、侍香僧が入室し、部屋の中央の香炉で献香をし、栄西禅師の肖像画を拝する。 続いてお正客に菓子の入った折敷が配られる。お正客の前のときは、僧侶は片膝立てで座る。 |
続いて相伴客に菓子の入った折敷が配られる。このときの給仕のときは、僧侶は立ったままで腰を曲げて配る。 お正客に対しては、ひとつずつ配られるが、 相伴客に対しては、折敷はお盆の上に乗っていて、差し出されたそれを各自受け取るかたちとなる。 |
続いて同じようにして、天目台に載せられた天目茶碗が配られる。この茶碗には予め抹茶が入れられている。 菓子は、紅白の紋菓が多いのだが、今回はきんとんであった。 口取りとして、煮含めたコンニャクがひとつ椿の葉に乗せられて、菓子に添えられていた。 |
僧侶が、注ぎ口に茶筅をはめた浄瓶(じんびん)を胸の高さに持って入室し、 客の前に腰を曲げた姿勢で立ち(正客のときは片膝を立てて座りながら)、客の差し出す茶碗に浄瓶から熱湯をそそぎ、 浄瓶を右腋につけて、右手で茶筅を使って茶を点てる。 このときに茶碗がひっくり返らないよう、客も天目茶碗と天目台を両手でしっかりと掴んでいないといけない。 元々は畳の上に座る座礼ではなく、 客側は椅子に腰掛けて、その前に卓が置かれ、そこの折敷と天目台が置かれる形だったと思われる。 |
観月の茶会ではあったが、生憎と曇り空で、月を見る事は出来なかった。 本来の四つ頭茶会は、毎年4月20日の開山降誕会のときに催されるもので、貴重な体験であった。 |
附『方広寺』
「国家安康 君臣豊楽」 この釣鐘は、 慶長19年(1614年)に、京都三条釜座の名古屋三昌によって鋳造。 銘文は、南禅寺の長老・文英清韓の撰文によるものであったが、 徳川家康の顧問僧・金地院祟伝により、 「家康の名をふたつに切り、豊臣家の繁栄を祈る呪詛」であると 故意に曲解して読み取られ、 徳川家への悪意があるとして、豊臣家討滅への口実として利用された。 現在も京都国立博物館の北側にある。 この附近は豊太閤に関わる史跡が多い。 この鐘のある方広寺は、現在では小規模な寺院であるが、 かつては、 幅82メートル×奥行き57メートル×高さ49メートル という巨大木造建築である大仏殿を有する寺院であった。 天正14年(1586年)に豊臣秀吉によって創建された方広寺の大仏は、 木像の上に漆喰を塗って金箔をかぶせたもので、奈良・東大寺の大仏よりも大きく、 高さは18メートル程もあった。 しかし、完成祝いの開眼供養直前の慶長元年(1596年)大地震によって、 大仏殿は無事であったが、肝心の大仏は大破してしまい、 それが取り壊されて後、 大仏の無いまま、大仏殿だけで慶長3年8月22日、 大仏殿供養会の法要が行われた。 (秀吉は3日前の8月18日に死去している) 慶長5年には関が原の合戦が起き、慶長7年、大仏殿は炎上している。 |
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