1994年のスクリアービン入門講座に対する全フォロー
なにせ、古い話になっていますので、フォローいただいた方のアドレスは
変わっている場合が多いと思います。ご承知おきください。
細谷@東大理情です。
>1.スクリアービン後期の作曲技法について
>その1 神秘和音:
>その2 属9の変化和音:
> 春秋社のソナタ全集(楽譜ですよ)の前書き解説に”単一の属9の和音
> で埋めつくしている”という意味の事があります。
> #日本の出版社がスクリアービンを出し始める前からMCA(これが一番
> #安かった)のを買ったから、春秋社のは手元にないのだ!
> 丁寧に書いてあるのですが、問題はこの音大生御用達出版社のレベルに私
> が追い付けないところにあります。トニカが不明で”属”とは? 無調に
> 至る途中経過でなら解る様な気はしますが.. ただし、機能和声から逸脱
”属”というのは、名前が悪いように思いますね。古典的には、トニカの五度
上を基音にした和音ということでしょうけど、トニカが不明の場合はこういう
和音を”属”と呼ぶのは確かにためらわれるものがあります。
でも、「基音から長3と短7の音を含んだ和音」というのはどう呼べばいいの
でしょう。僕は良く分からないので、しょうがないので”属”とよんでしまっ
ていますが。
ただ機能的に考えるとこの和音は、和音を進行させる強く、かつ不安定な性格
を持つことは確かなので、特別扱いはする必要があるような気がしています。
> しているかどうかはともかく、中期スクリアービンには和音の進行と言える
> ものがありましたが、後期では和音の進行は作曲の指針になっていなかった
> のではないか、と私には思えます。
> それでも神秘和音よりはアカデミックな香りがする分だけでもいいですね。
結局、僕にとってこの解釈が感覚的にすっきりしているので支持しているわけ
ですが、スクリャービンの後期作品に執拗に出てくる独特の和音の解釈として、
由来はこうだろうと思っていても、作曲技法としてこの和音をどこまで”属和
音”としての機能を意識していたのかということは、研究不足のためまだよく
分かりません。
#まえと同じようなことを書いてしまったかも…。
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細谷 晴夫
東京大学理学部情報科学科4年
e-mail: haruo@is.s.u-tokyo.ac.jp
「詩の創作に不可欠なのは、アイデアを出すこと、およびそれらアイデアの中
から最善のものを選択する能力である。どちらかと言えば、後者の方がより大
切である」(ヴァレリー)
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野々村です。
ヨーロッパ出張や学会でご無沙汰していました。スクリアビンに関しては
橋田さんに及ぶところではないので、ドビュッシーネタにのみ反応します。
> 3つの練習曲作品65
>
前回ドビュッシーファンへの挑発を試みたつもりだったのですが、どなたにも
>
乗って戴けませんでした。ドビュッシーのエチュードと、どちらが早く構想作曲
>
されたのでしょう。例えドビュッシーの、3度のために、4度のために・・・の
>
方が、アイディア段階で早かったとしても、スクリアービンの9度のための第1
>
曲と、7度のための第2曲の過激な美しさは独自のものです。第1曲については、
>
聴いた最初はやりすぎかな、と思いましたが、慣れれば第2曲に劣らず美しい。
> 勿論一番無難な5度の第3曲も美しい。
これは1912年作曲、ドビュッシーのエチュードは1915年作曲だから、問題なく
スクリアビンの方が早いですね。こと和音の練習曲に関しては、新古典的佇い
を意識したドビュッシーより自由に作ったスクリアビンの方が面白いと言える
かもしれない。しかし、ドビュッシーの練習曲集の真価は、音楽思考の練習曲
とみなせる第2巻----特に第10曲「対立するソノリテのために」----にあるの
だから、この比較にあまり意味はないのでは?スクリアビンの後期ピアノ曲は、
今世紀初頭の時代精神が結晶した興味深い例の一つですが、ドビュッシー後期
作品のように、時代を超越した普遍性を持ったことはなかったように思います。
もちろん、だからスクリアビンはドビュッシーには及ばないのだ、などと主張
するつもりは全くありませんが。
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Y.Nonomura
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不破@東工大です。
ピアノソナタ第6番についてはなにも加える言葉はありません。
> ピアノソナタ第7番作品64”白ミサ”
<中略>
>
これらの動機にミサとしての意味を持たせて喜んだのかも知れませんが、6番
>
に見られた、緻密さは感じられません。逆にこの曲から緻密さを感じる人は
>
そのままこの曲が好きで、従って私の感想をばかばかしいものと感じるかも
> 知れません。
私も、この曲から緻密さを感ずることができず、どう演奏したら良いのか分か
らなかったので、一度は演奏会に出すのを見送りました。しかし、この曲の圧
倒的に巨大な響きに条件抜きに惹かれていたので、半年ほど考えたあげく、あ
の、なんともいえぬブツブツ感は一種の「ユーモア」(or「リラックス」)だ
と勝手に(^^;解釈して、演奏会に出すに至りました。そのときは「悪魔的詩曲」
「ソナタ8番」などと照らし合わせて考えました。
>
私自身はこの曲を弾こうとしたことはありませんが、おそらく6,8と同じく
> 私には到底弾けない曲だと想像しています。
6番に比べれば、なんてことないと思います。:-)
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不破 友芝 Tomoshiba Fuwa
東京工業大学 理工学研究科 数学専攻 修士1年
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野々村です。まずは橋田さん、お疲れさまでした。
>>
ピアノソナタ第9番作品68 "黒ミサ"
>
スクリアービンは間違い無くこの曲を、そして恐らく6番も、さんざん自分
>
で弾きながら作曲しています。その根拠がこの曲の技術的な”やさしさ”に
>
あります。(中略)弾く段になると、手の動きが人間工学に適っているのが
> 分かるのです。
こういった記述だけでも、凡百の名曲解説に勝る、
素晴らしい連載だったことがわかりますね。
>
ホロビッツのCBS盤は、最初にアシュケナージで聴いて、訳が分からないと
>
思っていた私を後期スクリアービンにのめり込ませた、感謝すべき録音です。
>
1965年のヒストリック・リターンとまで言われた演奏会のライブで、
この時の演奏は、シューマンの謝肉祭もJ.S.バッハの怪しげな編曲ものも、
みんな素晴らしいですね。ポリー二だって、この年齢になったら、こんな
には弾けないだろうな。
>
#ルディの6番とこの録音とを手に入れたら、展覧会の絵でも新旧対決できます
>
#が、こちらではホロビッツですねえ。キエフの大きな門など、ホロビッツ編に
>
#馴染んでしまうと、オリジナルもラベル編もどうにも退屈です。これは余談。
アファナシエフの録音は、少なくとも退屈ではありません。しかも楽譜には忠実。
>>ピアノソナタ第10番作品70
>
ソナタ6番の紹介の所で、やりたいことをやり通したのが6、8、9番だと思う、
>
と私見を述べました。7番は誇大妄想狂がのさばって変な具合になったとすると、
> 10番は?私はスクリアービンがこの曲を”いい曲”にしようとしたと思います。
> そして、そのとおりいい曲が出来ました。
私は、10番が最高だとずっと感じていたので、あれれ?と思いながら
読んでいましたが、なるほど、こういうオチでしたか。感服致しました。
>> 焔に向かって 作品72
>
ソナタ10番でそれまでの行き方を総決算(集大成よりは妥当な言葉か)
>
したスクリアービンが新しい境地を開いた曲として、極めて高く評価する
>
向きもあります。私はそこまで持ち上げなくてもいいように思います。
演奏前にまず「焔に向かって」を弾くように、と要求している
現代ピアノ曲をFMでやっていました。2つの世紀末の心象風景を
並置した----とか作曲者は言っていましたが、要するに、Scriabin
と比べていかに自分は才能がないか、という露悪趣味だったようです。
この時のこの曲の演奏は良かった。確かポール=クロスリーだったはず。
>> 5つの前奏曲 作品74
>
スクリアービンが完成させた最後の作品について一言も触れないわけには参り
>
ませんが、一体これは何なのでしょう。不機嫌なうなり声のように聞こえます。
この曲は、いかにも「神秘和音」という感じで、なかなか好きです。
これ以前の曲は、どれも「無調」と呼ぶにはきれいすぎるから....
>
作品73と共に、未完に終わったスクリアービンのライフワークと
> なるはずだった”神秘劇”の下書きに当るものだそうです。
ふーん、そうだったのか。今度聴く時は心してみます。
>
スクリアービンがもっと凄い世界に行こうとしていたのか、誇大妄想が高じて
>
本当におかしくなったのか、かくして誰にも分からなくなってしまいました。
そーか、誇大妄想が高じておかしくなるのは、 ドイツの現代作曲家だけじゃないのか!!
******
> 私にとって、*作*品*のある程度の割合を知っているのが
> バルトーク/ヤナーチェクで、*録*音*のかなりの割合を
> 知っていたのがスクリアービンでしたから。
バルトークの録音のかなりの割合を知っている人、なんて
恐ろしい人は果たしているのでしょうか?もっとも、
私の友人には、ドボルザークの録音のかなりの
割合を知っているという人がいましたが。
> で、どなたかヤナーチェクやりません?
私は適任者を知っていますが、たぶんfj.*には
書いてくれないだろうな....お忙しいようだし。
> 野々村さんと交換日記だけでは物足りない。
それは、ことヤナーチェクに関しては、私など
橋田さんに及ぶところではないから....
バルトーク同様に、とりあえず推薦CDなど挙げ始めたら、
おのずとフォローが集まってくるのではないでしょうか。
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Y.Nonomura
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吉田です。
Scriabin入門講座にまとめてフォローします。
> スクリアービンのソナタ形式感は誰よりもベートーベンに近いと感じます。
> この件、ニュースの肴にして下されば幸いです。
Beethovenの後Scriabinに至る間、ピアノソナタでScriabin程動機への集中力
を見せた人はいないと思います。もっとも、この間のピアノソナタは演奏会で
たまに聴くぐらいで、あまり大きなことは言えないのですが。同時代では、Berg
のがあります。
> これは私が教えていただきたいのです。確か、スクリアービンと
>シェーンベルクとドビュッシーがほぼ同時に無調音楽に突入していったことに
>なっていましたよね? この3者はお互いをどう認識していたのでしょう。
私は、SchoeonbergとScriabinは方法こそ違えWagnerからの発展で、Debbusyは
Wagnerからの逃避と思っています。
ソナタ第6番
>第2主題は提示される時は、そうっと目立たずに現れます。初めて聴いて、
>主題と認識できなくて当たり前です。この時点で形式感はソナタ形式のそれ
>ではなくなりなす。
第2主題もはっきり提示されていると思います。この曲の展開部は、第1、
2主題を両方うまく展開していて好きです。ソナタ形式感は結構強いでしょう。
> そして再現部において、この主題は最も幸せな時を迎えます。私にとっては、
>スクリアービンの全作品中で最も幸せな時でもあります。また作曲者にとっては
>これが一番恐ろしい時だったのでしょう。分散和音のうごめきの上、まるで
>万華鏡の中の色片が次々と新しい形を作るように半音上昇がキラキラと明滅し、
>その中を第2主題がゆっくりと上がっていく... 展開部やコーダで高揚する
>局面もありますが、この曲の中心はここにあります。
後期のScriabinは、再現部で何かしないと気が済まないという感じですね。
ソナタ第8番
> スクリアービンはこの曲も弾かなかったらしいですが、6番とは違って友人に
>この曲を擁護する手紙を書いています。”あなたはこの曲に対位法がないと言う
>が...”と。
後期ソナタの中で、一番対位的な部分を含んでいるような気がします。例えば、
序奏主題がカノンになったりします。擁護したくなりますね。しかし、あの繰り
返しの多い構造は謎です。素晴らしい部分はあるのに、Schubertの様に繰り返し
でそれを潰しているようにも思えます。
ソナタ第9番
> 私としても弾いてみて初めて気付いたのですが、とにかく短い動機が隅々に
>いきわたってます。このことからスクリアービンの後期の和声というのは、実は
>対位法的なものに従属するに過ぎないと考えるようなりました。
Schoenbergも、第1弦楽四重奏曲辺りで、複数の動機、旋律を軸に機能和声の
拡張、解体を試みていて、この辺は類似する要素があります。Scriabinの場合ピ
アノ奏法として、分散和音形、コンパクトに手で弾ける詰まった和音形を使うの
でその辺から違い生じます。
後期ソナタは名曲が揃っていますが、私のもう一つの関心はWagnerの語法を採り
入れたソナタ第3番から、独自の和声法を押し進めながらも機能和声との怪しいバ
ランスを保っているソナタ第5番、Op.57等に至るプロセスを追ってみたいという
ことにあります。この間の小品に就いて何か推薦版はないでしょうか、出来れば全
て聴きたいのですが。第4回以前の講座でもう既に紹介されているのでしょうか。
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吉田
恭
東京大学大学院理学系研究科
物理学
神部研究室
kyo@swift.phys.s.u-tokyo.ac.jp
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不破です。
kyo@swift.phys.s.u-tokyo.ac.jp (kyo yoshida)
writes:
> ソナタ第8番
> > スクリアービンはこの曲も弾かなかったらしいですが、6番とは違って友人に
> >この曲を擁護する手紙を書いています。”あなたはこの曲に対位法がないと言う
> >が...”と。
>
後期ソナタの中で、一番対位的な部分を含んでいるような気がします。例えば、
>
序奏主題がカノンになったりします。擁護したくなりますね。しかし、あの繰り
> 返しの多い構造は謎です。
ミニマル・ミュージックに浸った後に聴いたら、ごく自然に感じられました。
…というのは嘘ですが、あの曲「ミニマル」っぽくありません?
> 素晴らしい部分はあるのに、Schubertの様に繰り返し
> でそれを潰しているようにも思えます。
これぞ謎です。
--
不破 友芝 Tomoshiba Fuwa
東京工業大学 理工学研究科 数学専攻 修士1年