おにがわらのつぶやき
 
おにがわらの種類・その弐
 
  鬼瓦にはどのような種類があるのでしょう~?
 
   鬼瓦は屋根のどこに設置されているか、どのような形をしているか
によって種類が分けられます。2つのタイプをご紹介します。
 
「足付鬼」(あしつきおに)
屋根の頂上の水平部分の両端、破風の拝み部分に設置するタイプです。
 破風(はふ・屋根の妻側にある三角形の部分や、斜めに打ち付けた板のこと)
 
「切据鬼」(きりずえおに)
降棟、隅棟、および寄棟などの先端に設置するタイプです。下の部分が
直線になっているのが特徴で「一文字鬼(いちもんじ)」ともいわれています。

 降棟(くだりむね・屋根の頂上の水平な部分から、
          屋根の勾配にそって軒下の方へ傾斜した棟)

 隅棟(すみむね・屋根の妻側の屋根と接した部分にできる、
          隅に向かって傾斜した棟)
   
  形により頭、胴、足の3つに分けることができます。 
頭の形には、「波型」「将棋頭型」などがあり、
覆輪がついたものをとくに「覆輪付(ふくりんつき)」といいます。
  「波型」
「将棋頭型」
「覆輪付」
 
胴には火災防止の願いを込め、水蒸気でできた「雲」や、
水分の多い「若葉」モチーフとして多用されてきました。
 
足の部位が存在するのは「足付鬼」に限られています。胴の模様に
続いているため、「雲」「若葉」がモチーフとなります。
足の内側の形により、丸くえぐれているものを「またぎ鬼」、
それ以外を「丸立(まるだて)鬼」といいます。
 
「頭」「胴」「足」、これらを合わせたものが鬼瓦です。鬼瓦にはさまざまな
種類がありますが、その土地や時代を表しているところが特徴的です。

例えば、
京覆輪鬼瓦は京都の西山周辺南部の住宅に使用されている鬼瓦で、
雲と波の形に特徴があります。京都という土地に合わせて形が
つくられていったのでしょう。

鬢付鬼瓦(びんつきおにがわら)は鬼瓦の頭部の両側がはりだしている形のもので、
海沿いや雪国で使用されています。


鬼面鬼瓦は鬼の形をした鬼瓦で、寺院でもっとも使用されるなど、
用途や場所に合わせてつくられていったのです。
 
  鬼師(おにし)とは~?
 
 鬼師とは「鬼瓦づくり専門の職人」のことです。
一般的な瓦がプレス機で製作されているのに対して、鬼瓦は繊細な手作業で
つくられています。熟練の技と根気が必要になります。

 鬼師は図面を引き、材料となる土も調合して複雑な形につくりあげ、
一晩乾燥させた瓦をなめらかに整えて磨きをかけます。
 さらに細部の彫刻をほどこし、2週間以上乾燥させた後、
高温の窯で丸一日以上離れずに温度調整をしながら焼き上げます。
 これだけの手間と技が必要なわけですが、当然できあがった後で
失敗となることもあります。
 鬼師の仕事は伝統的な和風建築物に使われる鬼瓦の製作が主ですが、
実力や実績が認められれば文化財として価値の高い歴史的建造物の
鬼瓦の製作をまかされることもあります。

 劣化した瓦の代わりをつくるという仕事は後世に自分の足跡を残すことが
できる仕事です。それだけやりがいのある仕事であるといえるでしょう。


 鬼師になるには、特別な資格が必要なわけではありません。
長い研鑽をつんで技を磨いていくしか方法はないのです。
その長い道のりを越えて活躍している鬼師は150人ほどと言われています。
 具体的に鬼師を目指す場合は、規模の大きいメーカーに入社したり、
力のある個人経営の工房に弟子入りしたりして修業をしていきます。
 どちらにしても一人前になるには長い年月がかかります。
それに耐えるだけの忍耐力も必要となってきます。
 
  鬼瓦の価格はいくらくらい~?
 
   鬼瓦の価格は「既製品かオーダーメイド」かで変わってきます。
既製品で、大きさは7寸とした場合の一例では、覆輪頭足付で3万6千円ほど。
大きいもので8寸の七福神付が9万9千円ほどとなります。
もちろんもっと安い1万円以下のものから10万円を超えるものまで幅広く
ありますので、希望にあったものを選ぶことが可能です。
価格は地域、人、時の流れにより変動していることがあります。
 
  日本一の鬼瓦
 
 
   日本一の鬼瓦は京都府福知山市にある「日本の鬼交流博物館」にあります。
高さ5m、横幅4.2m、重さ10トンもの巨大な鬼瓦は9ブロックに分けて
石州(島根)・
三州(愛知)・越前(福井)の鬼師によって分担して製作されました。
迫力ある鬼の面は一見の価値があります。
 
 
 ちなみに~私の住む高浜市(三州_愛知県)には、「古代鬼面」の鬼瓦
としては日本一大きな作品が、高浜港駅前にデンと居座っています。
モデルは
東大寺転害門の屋根の鬼瓦です。

この古代鬼面は、地元の鬼師(上記・福知山の日本一鬼瓦製作にも参加)より
寄贈されたものです。
高さ4.5m 横幅4.2m、粘土を4トンも使用して1年半かけ、57ピースに
分けて制作された大きな「数珠掛け鬼面」のモニュメンです。

 
モデルと言われる「東大寺 転害門」の屋根の鬼瓦。
表情が平面的で団栗眼(どんぐりまなこ)だそうです。
 
天平の ” 生き証人 ” 東大寺・転害門(てがいもん)
 
1300年余の時を越えて佇む創建当時からの大門
 
守り神がくぐりし始まりの門 転害門

一条通りを東へ行くと転害門に突き当たります。転害門は三間・一戸・八脚門の形式で、門の高さは基壇を除いて10m強。本瓦葺・切妻造の屋根で、その構えは実に雄大。中央の二柱には今も地元の川上町の有志らによって大注連縄がかけられています。

かつて平城左京一条大路に西面して建立された転害門は佐保路門とも呼ばれていました。東大寺西面(東七坊大路)には3つの門が開かれていましたが、このうち北の門である転害門だけが「治承の兵火」「永禄の兵火」の二度の兵火を免れました。修理を受けていますが、奈良時代の東大寺伽藍を偲ばせる遺構として、今も堂々たる姿でたたずんでいます。

749年、聖武天皇は大仏建立の守り神として宇佐神宮(現在の大分県)から「八幡神」を勧請し東大寺の鎮守としました。その際、「八幡神」は一条通から、この転害門を通って東大寺に入ったといわれ、それが今も毎年10月5日に転害門を御旅所として行われる「転害会(てがいえ」の由来となっています。

ところで、「てがいもん」は、「転害門」のほか「碾磑門」「手掻門」「手貝門」と表記されることもあります。吉祥の位置(大仏殿の西北)にあり害を転ずる意から、付近に美しい碾磑(石臼)があったから、この門で行基が菩提僊那を手招きする様子が手で物を掻くようだったから・・・等、数々の言い伝えが残り、どれも興味深いものばかりです。

 
「一枝の草、一把の土を持ちて、像を助けむとする情に願はば、恣に之を聴せ」
天平15年(743)、聖武天皇は大仏建立の詔を発しました。
 例え小さくとも、国民皆の力を結集して大仏を造ろうとの呼びかけは人々の心を動かし、喜捨をはじめ材木や人夫の提供など、260万人にも上る知識(協力者)を得るにいたったと、「東大寺上院修中過去帳
(とうだいじじょういんしゅうちゅうかこちょう)記されています。
260万人は当時の人口の約半数だったそうです。日本の人口の約半分が関わる国家プロジェクトなど、たぶんもう二度と実現することはないでしょう。
 この世紀の大事業は紆余曲折を経て、詔から6年後に完成しました。しかし、南都の安寧の象徴であったはずの東大寺は、平重衡
(たいらのしげひら)の南都焼討(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の大火にさらされ、主要伽藍(がらん)をことごとく失ってしまいました。
 そんな絶望的な状況の中で、奇跡的に焼け残った建造物が、西面大垣に開く門のうち一番北に位置する「転害門」です。
 
   平城左京一条大路(佐保路通り)に面することから佐保路門と呼ばれていた転害門。南北15メートル、東西7.73メートル、高さ11メートルの堂々たる規模で、ゆるやかに伸びた大棟の曲線、切妻屋根を支える八脚の円柱などが特徴的です。雄大さと繊細さが見事に融合する姿は、しばし“天平の香り高き”と形容されています。
 造営時期は不明ですが、東大寺の寺域を描いた「東大寺山界四至図(とうだいじさんかいししず_756年)にはすでに「佐保路門」と描き込まれています。この期の八脚門で現存するのはあとは法隆寺だけだそうですから、どれほど貴重かが知れるでしょう。
 さて、南都焼討の後、東大寺は源頼朝の協力のもとで再興されるが、転害門もその時に大改修が施されました。運慶・快慶の金剛力士像が出迎える南大門も鎌倉時代の再建のもので、大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる当時の最新様式で建てられています。
 転害門の改修にも大仏様のデザインが一部用いられましたが、それは門の表側だけで、背面側は当初の用材を使用しながら創建時の
「和様」が生かされています。
 この門が焼け残った理由のひとつに、東大寺境内の北西の隅というロケーションが挙げられる。そう聞くと、なんだか脇役だったように感じられるが、門前の道が平城宮と一直線でつながっていることから、天皇が参拝するには 転害門がもっとも便利だったとも考えられています。
 東大寺の正門として誰もが思い浮かべる南大門は、前述の四至図には実は描かれていません。尾根筋に当たっていて平地でなかったこともあり、建設は後年だったらしいのです。
 鎌倉時代の改修も転害門が先立って行われていて、理由は京都からの街道に対する正門の役を担った可能性が高いからといわれています。
 つまり歴史的にも機能的にも、転害門は東大寺を代表する建造物だったのです。
ネット記事から参考させていただきました。
 
「和様」(わよう)
   鎌倉時代に大陸の影響を受けてできた大仏様に対し,
   鎌倉以前の唐(中国)の様式の和風化した建築様式を指します。