おにさんこちら
 
屋根の上で鬼ごっこ・・・きょうとさんさく
 
 
 
西本願寺
   
 西本願寺 飛雲閣
  西本願寺(にしほんがんじ) 正式名称:龍谷山本願寺 愛称:お西さん
所在地 京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町60
山 号 龍谷山(りゅうこくざん)
本 尊 阿弥陀如来
宗 派 浄土真宗本願寺派
文化財 御影堂、阿弥陀堂、飛雲閣(国宝
経蔵、鼓楼、絹本着色聖徳太子像ほか(重要文化財)
本願寺境内(国史跡)
 
 
西本願寺の正式名称は「本願寺」であり、東本願寺の正式名称は「新宗本廟」ですが、所在する位置から西本願寺と東本願寺と呼ばれ親しまれています。場所も両寺は徒歩15分ほどしか離れていないご近所。共に鎌倉時代の親鸞聖人(しんらんしょうにん)を宗祖としています。

西本願寺は国宝だらけで見どころ満載です。華やかな西本願寺と威厳あふれる東本願寺。同じ本願寺ですが、異なる歴史をもち、それを知っていると楽しみ方が増えるかもしれませんね。

世界遺産の一つに挙げられている「西本願寺」は豊臣秀吉時代に作られたこともあり金ぴかな「唐門」等の華やかな建築が印象的です。また、あの金閣と銀閣と並び、京の三閣にも数えられている「飛雲閣」があることでも有名です。鎌倉時代、宗祖親鸞の廟堂として創建され、豊臣秀吉に現在の寺地を寄進されました。その後、徳川家康が七条烏丸に「東本願寺」を分立させたため、西本願寺と通称され、市民からは「お西さん」と親しまれています。多数の文化財を誇る大伽藍は、1994年世界遺産に登録されました。境内には、国宝の堂宇が立ち並びますが、特に三層の楼閣「飛雲閣」は、京の三閣(金閣・銀閣)の一つとして有名です。
 
 
 国宝 唐門 (修復後)
境内南の唐門は高さ8.7メートル、幅5.4メートル。寺が1591年に現在の場所に移転した後に造られたとされています。桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮(ひわだ)葺き・唐破風の四脚門で、彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから、日暮門(ひぐらしもん)とも呼ばれています。西本願寺が現在地に移転した1591年頃の建立とされますが、装飾のほとんどは当初のものではなく、1618年に堀川通から現在地に移築された際に加えられたものと考えられています(1617年の火災で焼け残った本願寺最古の建物とも)。
2018年6月から2022年3月にかけた予定で、 檜皮葺(ひわだぶき)の屋根をふき替え、門全体の黒漆を塗り直したほか、極彩色の 麒麟(きりん)や唐獅子など107点の彫刻は、X線分析で顔料を特定して彩色したそうです。現在は修復を終えた部分の美しい姿が拝観でき、桃山時代を象徴する華麗な姿がよみがえりました。

黒い漆や飾り金具の輝き、木彫に施された鮮やかな彩色を取り戻しました。日の光が差すと、目がくらむほどのまぶしさがよみがえっています。

 この唐門には幾つかの言い伝えがあります。
妻入りに彫刻された鶴は、江戸時代の彫刻師 左甚五郎作と伝えられています。
この鶴、夜毎に門から抜け出して飛び回り、鳴いて騒いだと言われています。
あまりに騒々しいたため、その鶴の首を切り落としたという
生々しい逸話まであるほどです。
 
鶴の背景は亀甲模様になっていて、鶴と亀で永遠の繁栄を願ったのではないでしょうか。また、16弁菊紋と五七桐紋で、天皇と豊臣家の両方を重んじる姿勢が窺えます。頂点に君臨するのは菊門ですが、数では桐紋が上回ります。どちらがごねてもうまく説得できる仕組みになっているのには考えさせられる図象でしょう。
本山には沢山の鳩が生息していますが、不思議なことにこの唐門にだけは他の鳥も含めて留まらず、蜘蛛も巣を張らないそうです。あまりの彫刻の見事さに、鳥や虫さえも一目置いているかと思いきや、実際には鳥や虫が嫌がる香り成分が顔料に含まれているのだそうです。
「左甚五郎の彫刻に恐れをなして寄り付かない」との都市伝説が、儚くも崩れ去りました。
 
   
 
↓ 御影堂の瓦 ↑
 
 御影堂の瓦ー獅子口
 獅子口とは鬼瓦に相当するところに据える箱型の屋根の装飾で、鬼瓦の上にある3本の角のような瓦は、「経の巻(きょうのまき)」と呼ばれる円筒形の巴瓦です。お経の巻物ですね。「経の巻」は、3本が基本形のようです。まれに5本があるそうです。1本の場合もあります。その場合、「鳥休み(とりやすみ)」というのだそうです。3本よりは、1本の方が鳥も休みやすそうです。
 本来は桧皮葺きや柿葺きの屋根のおもしとして用いられていたものが、鬼瓦と同じように瓦葺き屋根にも獅子口が使われるようになったようです。

棟の端を隠すために使う瓦には、獅子口の他に、鴟尾(しび)・鬼瓦・鯱(しゃちほこ)・などが挙げられます。


棟の先端に据え付けられた獅子口は全部で18個、その中でも屋根の頂上、大屋根の南北にひとつづつある
大棟獅子口が最大の物。高さ3.6m、その下には「鰭ヒレ」と呼ばれる雲の装飾瓦がついていて、幅4m、総重量1.5トンにもなります。
ちなみに、御影堂の「獅子口」は、重さ3トンあります。「日本家屋の屋根には、どうしてあんなに重たいものを乗っけるんだろう?」と思ったことはありませんか?
でも、あの重さが必要なのだそうです。重さがあってこそ、屋根が、建物がしっかりとするのだそうです。
  
「鬼瓦」は、魔除けのためとか、防火の願いを込めたものと言われています。
歴史的には、飛鳥時代からあったと言われています。時代を経て、装飾や願いが加わり、鬼瓦はいろいろな形へ変遷してゆきます西蓮寺本堂の獅子口のような形は、江戸時代頃からみられるようになったと言われています。
獅子 留蓋    
  
中雀門
 
 
 西本願寺 中雀門
平唐門の中雀門です。扉の透かし彫りがなんとも美しい素朴な門です。
門の傍らには「明治天皇行幸所本願寺」の石標が立てられています。
因みに、中雀門は、扉に真鍮の金具を打った門を「鍮石門」と呼ぶことから
その当て字とも、城内または武家屋敷の内部に設けた門を「中柵門」
と呼びことからその転化とも言われています。
 
 西本願寺 阿弥陀堂門
「阿弥陀堂門」は「阿弥陀堂」のほぼ正面東側に位置しており、門を通して「阿弥陀堂」を見ることができます。檜皮葺で南北面は唐破風、東西面は千鳥破風の屋根を載せた四脚門で飾り金具や金箔押しが施されていて、お隣の御影堂門に比べてとても煌びやかです。

 本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、西本願寺と称し,通りに面して御影堂門と阿弥陀堂門を構え、経蔵、手水所、鼓楼などが建ち並びます。巨大な輪蔵を有する経蔵は延宝5年(1677)の建築で、内部の腰まわりには色鮮やかな有田焼の瓦が張られています。
御影堂門,阿弥陀堂門は大規模な四脚門で、独特の組物構成を持ち、彫刻や錺金具などで装飾されています。本願寺の表構えを構成するこれらの建築群は、いずれも規模雄大で質が高く、それぞれ各時期の優れた意匠と技術が結集されており、江戸時代を通じて発展した真宗本山の格式に相応しい充実した建築として価値が高く、近世京都の都市景観を知る上でも重要な存在であり、既指定の鐘楼とともに保存が図られています。
 
 
 
東本願寺
 
東本願寺 御影堂門
  東本願寺(ひがにしほんがんじ) 
           正式名称:真宗本廟 愛称:お東さん、お東
所在地 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
山 号 なし
本 尊 阿弥陀如来
宗 派 真宗大谷派
文化財 教行信証(坂東本)全6冊(国宝)御影堂、阿弥陀堂、
絹本着色親鸞聖人像(安城御影)ほか(重要文化財)
 
東本願寺から少し離れた七条堀川には、西本願寺がありますが、
東本願寺と西本願寺は、もともとひとつでした。十二代法主の教如が
分派し、徳川家康から土地をもらって東本願寺を建立したのだそうです。
同じ浄土真宗ですが、西本願寺は、浄土真宗本願寺派、
東本願寺は、真宗大谷派の総本山となっています。
ちなみに東本願寺は通称で、正式名称は真宗本廟といいます
 
 「大棟獅子口」は高さ約4.3m、幅約3m、重量約3t、
 15個にも及ぶ瓦が組み合わさってできているそうです。
 
  
                        数珠付三つ巴
           東本願寺の瓦は、鬼の代わりに蓮の花がついてます。
工事の終わった御影堂の亀型瓦(万年瓦とかいうらしい)です
「本願寺」の文字が入っています。三つ巴の物はよく見かけますが
字が入っているのは少なく
紅葉で有名な「永観堂」も文字が入っています。
 
 牡丹の花の飾り瓦 
 
 
世界遺産 清水寺
 
 
  清水寺(きよみずでら): 別称(御寺)
所在地 京都市東山区清水1-294
山 号 音羽山(おんわさん)
本 尊 十一面千手観世音菩薩
宗 派 北法相宗
文化財 本堂(国宝)、仁王門、三重塔、阿弥陀堂ほか(重要文化財)
 
清水寺の七不思議のひとつ 三重の塔の鬼瓦たち
北東、北西、南西の鬼瓦はこの鬼瓦です。
 
東南だけが龍の瓦です。↓
拡大してみました ↓
鬼瓦に巻き付く龍
三重塔は薬師寺・東塔(34m)に次ぐ、高さ(31m)です。
その三重塔の東南角のみ水の神「龍」が巻き付いた鬼瓦です。
龍は雨を呼び 火を防ぐ守護神とされています。
 
多くのお寺で使われている紋はたぶん数珠付結城巴紋です。
 
  巴紋について
 巴紋 は水が渦を巻いているように見えることから「防火」や「火の用心」を
意味するようになったそうです。
 鯱とか懸魚(げぎょ)、摩伽羅魚(まからうお)と同じような位置づけです。
京都では古来からとくに火事が多かったこともあり、
平安末期頃から火災除けとして使われるようになったそうです。
 「三つ巴」の巴はそれぞれ「前世」「現世」「来世」を表しているそうで、
お寺や神社で多く見かけるのは火除けや願掛けが込められているのです。
丸に左三つ巴紋 丸に右三つ巴紋
左三つ巴紋は
左回りに模様が流れています。両方とも渦を巻いたような模様ですが、向きに違いがあるのです。
 右三つ巴紋は
「右三つ巴紋」は時計回りと同じ、右方向に模様が流れているのが特徴です。
 
 
泉涌寺・・・目が光る鬼瓦
 
 
  泉涌寺(せんにゅうじ): 別称(御寺)
所在地 京都市東山区泉涌寺山内町27
山 号 東山(とうざん)、泉山(せんざん)
本 尊 釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来
宗 派 真言宗泉涌寺派
文化財 泉涌寺勧縁疏、附法状(国宝
仏殿、大門、開山堂ほか(重要文化財)
泉涌寺は皇室の菩提所ということで、いたるところに菊印があります。
仏殿の鬼瓦は目が光る!というらしいです。鬼瓦にギリギリまで
近づいて見上げると、目が光っているように見えるそうです。
これは、目の部分の仕上げで、穴を空けていて、
空が透けて見えるピンポイントがあるのだそうです。
 
 
 
世界遺産 仁和寺
 
 
  仁和寺(にんなじ) 別称:旧御室御所
所在地 京都市右京区御室大内33
山 号 大内山
本 尊 阿弥陀如来
宗 派 真言宗御室派
文化財 金堂、木造阿弥陀如来及両脇侍像、木造薬師如来座像(国宝
五重塔、観音堂、仁王門ほか(重要文化財)





軒巴瓦はハスの花実の上に梵字の柄が入っていました。
仁和寺金堂の隅棟の鬼は亀に載った仙人(黄安仙人)
梵字 : 千手観音の意
梵字について詳しくは
金堂の鬼瓦。鬼のおでこと鳥衾や留蓋に「法輪」の模様
 
  仁和寺は御室桜が素晴らしいのですが、
  瓦に桜がデザインされています。
仁和寺の御室桜        
  仁和寺
応仁の乱で荒廃した仁和寺は、約160年後の寛永11年(1635年)、ようやく再興されます。同年7月24日、仁和寺第21世 覚深法親王は、上洛していた徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されました。さらには慶長の御所造替とも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了し、創建時の姿にやっと戻りました。
 金堂の屋根瓦に、亀がいて上に人が載っています。これは黄安仙人といいます。亀は3000~4000年に一度、水面から顔を出すといわれていて、黄安仙人はその亀を3~4回見たそうだと言われていて、これは永遠の象徴だそうです。
北野天満宮拝殿、二条城唐門、日牟禮八幡宮(近江八幡)の山門などにも黄安仙人が彫られています。
      
2022年度竜王戦 第2局は10月21・22日に仁和寺で開催。藤井聡太竜王:広瀬章人八段
 
  仁和寺の御室桜(おむろざくら)
京都に数ある桜の名所の中でも特に著名です。仁和寺の御室桜は、
1646年(正保3年)頃の伽藍復興時に境内に桜が植えられたことに始まります。
桜を植えたという記録は残っていませんが、少なくとも
1661年(寛文元年)に花見をしたという記録が残っています。
1661年には既にお花見をできるくらいまで成長していたということです。
当初からの御室桜の樹齢は360年を越えることになります。
仁和寺の御室桜は、1924年12月9日に国の名勝に指定されました。
桜の名所として名勝に指定されたのは、桜川(茨城県)、
小金井(東京都)と並んで初めてのことでした。
  梵字とは
 梵字は古代インドで誕生し、仏教と共にアジアにひろまりました。
「神仏を一字で現す文字」として中国を経て日本に伝わり、空海によって体系化されました。 古くは悉曇(しったん)文字と呼ばれ、仏像や仏具、経典などと同等に大切に扱われています。しかし現在は、インドや中国での梵字は廃れてしまい、日本だけで使われています。
 仏教の多様化と共に、梵字の意味する仏やご利益も多様化し、解釈や宗派によって様々ですが、一文字が複数の神仏を表したり、一つの神仏に複数の梵字があったりします。
 一番分かりやすく一般的なのは、生まれつきによる守護本尊と梵字の組み合わせです。特別にこだわりが無い場合、これを使っていれば間違いないそうです。
 
 
 
 
 
世界遺産 醍醐寺
 
  醍醐寺(だいごじ) 別称:旧御室御所
所在地 京都市伏見区醍醐東大路町22
山 号 醍醐山、深雪山(上醍醐寺)
本 尊 薬師如来(重要文化財)
宗 派 真言宗醍醐派
文化財 金堂、五重塔、木造薬師如来及両脇侍像ほか(国宝
清滝宮本殿、絹本著色阿弥陀三尊像、ほか(重要文化財)
三宝院庭園(特別史跡、特別名勝)世界遺産
醍醐寺境内(史跡)
 世界遺産・醍醐寺、最初の門(総門)の両側に乗っています。ここの
「五七桐」の鬼瓦は三枚の瓦が三角形に組み合わされ、三方を睨んでいます。
 三方を睨む鬼瓦は珍しいのですが、五七桐の瓦もとても珍しく、
豊臣家の家紋なのですが、それを掲げたまま徳川の世を乗り切ったと
いう意味と、 秀吉の正室 ” ねね ” の縁の地ということで、” ねね ” は
徳川家(秀忠)と関係が良好であったから、と考えられているそうです。

   五七の桐
 



 丸に花角紋でしょうか

   


丸に隅立て四つ目紋
国宝「金堂」の屋根にある、愛嬌のある可愛い「鬼さん」です。
  「醍醐の花見」
花見のために大工事が行われたというのですからビックリです。秀吉は一年前石田三成や前田利家と醍醐寺に下見に行き、すばらしい所だということで、次の年、大規模な「醍醐の花見」を企画します。構想自体は決まっていたそうですが、開催のわずか1ヶ月ちょい前正式決定され、秀吉はまた、徳川家康、前田利家など、そうそうたる大名を従えて醍醐まで下見に出かけたました。ここから突貫大工事がはじまります。その内容がスゴイんです。まず700本もの桜を吉野や近江など畿内からかき集め移植します。これがなんと1週間で完了したそうです。さらに桜にふさわしいロケーションとするべく、醍醐寺三宝院の復興をはじめ、山の中腹に8つ茶室を作って眺める趣向で、お花見をします。寺内各所の御殿や庭園などの修理も命じます。まるでアラブの石油王のような豪遊っぷりですね。この間、秀吉自ら何度も現場に足をはこび指揮をとったそうです。考えてみれば、たった一晩で城を築いたという「墨俣の一夜城伝説」で名を馳せた秀吉のこと、工事はお手のものであったわけですね。

醍醐の花見での招待客は女性ばかり
1,300人。人数自体は吉野の花見(5,000人)の方がはるかに多いのですが、特筆すべきは男女比率です。1,300人中、男性は何人だったのでしょうか。秀吉とその息子である秀頼、そして前田利家、以上です。なんと、たったの3人です。その女性たちは2回の衣裳替えのため、1人3着の着物が新調され、京都の経済効果は現在価値で40億円相当だったとか。今では考えられないようなスケールの大きさに驚くばかりです。
ちなみに、8つあった茶室が、現在は三宝院内に移築されています。
こうして迎えた花見当日の参加者は約1,300人。実は下見には来ていた徳川家康は招待されなかったそうです。99.77%が女性という超ハーレム状態の花見だったわけです。姫さまばかりでもめごとも生まれ、宴の席ではともに秀吉の側室である淀の方と松の丸の大ゲンカが勃発します。原因は盃を受ける順番をめぐってのことでした。
 
 
  墨俣の一夜城(すのまたのいちやじょう)
 木下藤吉郎(羽柴秀吉→豊臣秀吉)が出世するきっかけになったと言われている「墨俣城」は、 岐阜県大垣市(旧安八郡墨俣町)にあった平城です、もともと、川の中洲に斎藤利為らが築いた洲股要害として機能したようですが、尾張から美濃へ侵攻する重要拠点であることから、度々合戦になっていたようです。1561年には、美濃斎藤勢の要害を織田信長は攻略し「洲俣要害」を改修して在陣したと信長公記に見られます。

 良く知られる話では、織田信長の命で、最初に佐久間信盛が洲股砦城の建設に挑むも失敗。柴田勝家も失敗し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が「7日のうちに完成させます」と言上しました。そして、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら、砦城の建造準備を行い、1562年6月中旬頃、雨で戦闘が中断している中、上流から流した材木を組み立てると、一夜にして墨俣城を完成させたと言う逸話です。

 これらの伝説は、1959年に愛知県江南市にて発見された前野家古文書をもとにした内容ですが、議論は分かれるところで、豊臣秀吉に協力して墨俣城を築いたとされる蜂須賀小六の史料にも一夜城の記述はありません。よって、一夜城の逸話は江戸時代に作られた創作であるとして、木下藤吉郎が一夜城そのものを築かなかったとする説もありるようです。

 現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されていて、公園内には大垣城天守を模した大垣市墨俣歴史資料館(墨俣一夜城)が建てられていますが、史実上の外観とは異なるそうです。また、公園内にある白鬚神社式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれた際に分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られています。
 
大垣市墨俣歴史資料館
 
 
 
妙心寺
 
 
妙心寺・法堂(はっとう)の「雲龍図」
江戸時代の天才絵師・狩野探幽、55歳の時に描かれ、
スケール・迫力・鮮やかさの点で京都随一と
言われている “ 天井龍 ” です
 
  妙心寺(みょうしんじ) 別称:旧御室御所
所在地 京都市右京区花園妙心寺町64
山 号 正法山
本 尊 釈迦如来
宗 派 臨済宗妙心寺派
文化財 梵鐘、大燈国師墨蹟関山字号(嘉暦己巳仲春)ほか(国宝)
仏殿、法堂、三門ほか(重要文化財)
方丈庭園(国の史跡・名勝)
「探幽の龍」が描かれる法堂の屋根には、
四方に鬼瓦が飾られているのですが、実はそれぞれ鬼の顔が違います。
北西の鬼瓦は額に「小槌」が、北東の鬼瓦には「五芒星」、
南西の鬼瓦は「六芒星」が描かれていて、
南東の鬼瓦は、火伏の意味が込められて、鬼ではなく「龍」です。
理由は、南東の方向に京都御所があるからだと考えられれています。
なぜ「龍」~? 禅宗では「龍」は守り神として祀られえているそうです。

 
北東の角、丑寅の方角の瓦です。晴明神社の五芒星。魔除けだそうです。
南門の鬼瓦。「五七の桐」紋がおでこについています。大きな「だんご鼻」ですね~!
昇り龍 下り龍
麒麟(きりん)の鬼瓦。麒麟は、中国で、聖人の出る
前に現れるとされていた想像上の動物だそうです。
鬼瓦のおでこに五芒星
(魔よけの意味です)が見られます。
この鬼瓦は北東に向いて付けられています。

鬼瓦自体、魔よけの意味があるのですが!
他にも相国寺、奈良唐招提寺、
西大寺などにも見られるようです。
 
  五芒星(ソロモンの星)とは~?
五芒星(ごぼうせい)とは、五光星、五稜星あるいは五角星
five-pointed star)と呼ばれる5つの角を持つ星マークのうち、
互いに交差する長さの等しい5本の線分で構成され、中心に五角形が
現れる図形です。世界中で魔術の記号とされ、守護に用いることもあれば、
上下を逆向きにして悪魔の象徴とすることもあります。悪魔の象徴として
とら
える際には、デビルスターと呼ばれることもあるようです。

五芒星は一筆書きができることから、魔が入り込む隙を与えない形と
されています。非常に強いパワーを持っているため、古来より魔術者
などが用い、時の権力者のために使ったのです。
そのため、魔除けや浄化の護符として用いられていますが、
手相として
表れた場合は大吉相
です。非常に珍しい手相で、五本の線で作られた
星マークの形をしています。
五芒星がある人には、予期せぬ大きな
幸運や望んでいた大きな幸運がもたらされるとされています。
  六芒星(ダビデの星)とは~?
ユダヤ人の国・イスラエルでは、17世紀以降、ユダヤ人を表すものとして六芒星(ろくぼうせい)が使われてきました。イスラエルの国旗にはダビデの星と呼ばれる青色の六芒星が描かれていますし、ユダヤ教のマークとして知られています。


国旗に六芒星を使用している国は他にもあります。
現在、世界6ヶ国で六芒星が描かれた国旗がありますが、やはり最も大きな六芒星が描かれているのはイスラエルの国旗です。
ほかに、モロッコ、スロベニア、赤道ギニア、ブルンジ、リーフ共和国の国旗には六芒星が使用されています。
それぞれの国において、歴史的背景などから国旗に採用されているようです。られています。
  日本における六芒星の由来


籠目模様
日本でも昔から六芒星が使用されていることが分かっています。
スピリチュアルな意味でも六芒星のパワーは非常に大きいことが分かっており、六芒星と酷似した図形を日本では「籠目(かごめ)」と呼んでいます。
 日本では「籠目」という文様があります。竹編みの籠の編み目を図案化したもので、魔除けとしてこの図形を用いることがりました。家紋としては籠目紋といい、「籠目」、「丸に籠目」などが使用されています。江戸時代には、小宮氏、曲淵氏などが用いていました。。

  伊勢神宮の石灯籠には、現在も日本の六芒星『籠目』が刻まれています。
伊勢神宮の内宮・外宮の間に、石灯籠が並ぶ道があります。
そこをよく観てみると、六芒星・籠目が刻まれていることが確認できます。
  六芒星のスピリチュアルなパワー
六芒星は宇宙エネルギーを集約するパワーを持っています。
宇宙からの無限なエネルギーを集めるために六芒星を使用することで、
宇宙エネルギーを自分のパワーとして集約することができます。
常に六芒星の図形を持ち歩いたり、部屋に飾ることで、宇宙エネルギーを
自分のパワーとして感じることが可能であることを覚えておきましょう。
また、六芒星は塩で清めるなど、清潔に保つ必要があります。
そうすることで、効果をより一層強く感じることができ、
スピリチュアルなパワーを感じ取ることができるそうです。
宇宙エネルギーを取り入れるほかにも幸運を引き寄せるお守りとして
考えられてきました。
浄化や魔除けの意味を持ち、身の回りや自分の中の
毒素や悪運を浄化し、悪い者を寄せ付けないパワーがあります
ですから、是非、六芒星の図形を描いたものをカバンの中に収めて
持ち歩いたり、自室や会社のデスクなどに飾ることをおすすめします。
実際に効果を感じる人は多く、自分の中に溜まった毒素や邪気を
浄化することで、頭が冴えたり体が軽く感じられることがあるようです。
 
  留蓋瓦(とめぶたがわら)
留蓋瓦は、切妻屋根の棟隅の端で瓦の合するところを覆う瓦です。
雨水の浸入や台風などの大風で先端部分の瓦が飛ばされないよう防ぐ役割があり、
装飾としても発展してきました。

実用と見た目を兼ねた留蓋瓦にはもう一つ、鬼瓦とともに屋根の上で「魔」に
睨みを利かす、魔除けのアイテムとしての大切な役割が与えられてきています。

なかでもよく見かける留蓋瓦のデザインに、「桃」があります。
中国で桃は桃源郷のシンボルであり、病や邪気を払い、不老長寿の力を
与えてくれる果物「仙果」として珍重されてきました。日本でも早くから、
桃は陰陽道では魔除け・厄除けの強い霊力が宿っていると信じられていて、
鬼門(北方向)の魔除けとしているそうです。

「魔除け」の「鬼面」の奥にモモを配せば、鬼面の効果が更に高まり、
「弁財天」の奥にモモがあれば、弁財天の縁起に更に「多産」の役も加わり
鶴亀の奥にモモを控えさせれば、「長寿」の役儀がより強まりかもしれません。。

『古事記』で妻を探しに黄泉の国へ行った「イザナギ」が、
醜く変貌した妻の「イザナミ」の姿を見てしまったため、追っ手に追われます。
その際に、その地に生えていた桃の実を三つもいで、投げて追っ手を退散させ、
無事に逃げることができのです。また、
昔話の『桃太郎』は鬼退治をする主人公が「桃」から生まれていますよね!

桃は縁の下の力持ちのような健気な美しさをもっているのです。

 また、「重陽の節句」では菊の花に無病息災や長寿を願って菊を観賞したり、菊酒を飲んだりするし、蓮もまた霊力を持つ花です。

 つまり、寺社仏閣は邪気を払い、霊力を持つ数々の物に何重にも
守られていることがわかります。境内にたたずむと清々しい気持ちに
なるのは、しっかり私たちを見守ってくれているからでしょう!
最強の厄除け果実と言われる桃の留蓋  
  かわいい笑顔(?)の獅子の留蓋
菊の花の留蓋     
  右は鬼瓦、その左下に蓮の花の留蓋、家紋瓦は「五七の桐」
五七
立派な龍の留蓋      
 
 
建仁寺
 
 
 
 
  
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