おにさんこちら
 
屋根の上で鬼ごっこ・・・かわったかわら
 
 
 
法隆寺
 
 
この鬼瓦は、日本最古の鬼瓦で、約1400年前・飛鳥時代に
奈良
法隆寺の寺院跡「若草伽藍」から発掘された蓮華文鬼瓦で
「鬼瓦の傑作」といわれています。
蓮華文とは八枚の花弁の花を模った紋様で、鬼のいない鬼瓦です。
現在「大宝蔵院百済観音堂」の屋根に据えられています。
八葉蓮華の美しい文様であり呼称も鬼瓦ではありませんでした。
それが、「獣面文」となり「牙」が出て「角」が出てきたのです。
幾何学文様 蓮の華の文様
↑ 軒丸瓦に刻まれている文様
「単弁八葉蓮華文」はこんな感じ~?
 

 
南大門の「雌鬼瓦」と「雄鬼瓦」
 
雄鬼瓦          雌鬼瓦
南大門の鬼瓦は、「雌鬼瓦」は「雄鬼瓦」よりも角が短いのですが
常に友達とおしゃべりをしたり、旦那に愚痴を言ったりしていますので、
口は開口です。一方、雄鬼瓦の方は上役から攻められ、部下からは
突き上げられ、ストレスが高じて口を真一文字に結んでいます(笑)。

 
家紋は数珠掛尾長渦流右三つ巴 中央の平瓦の側面には唐草文様が刻まれています
「法隆寺」の文字が浮き上がっています
数珠掛尾長渦流右三つ巴(じゅずかけおながかりゅうみぎみつどもえ) と 九目結門(ここのつめゆいもん)

丸瓦の文様には徳川家の家紋「三つ葉葵」
がなく桂昌院の実家・本条家
家紋・
九目結門
(ここのつめゆいもん)だけだそうです
   繋ぎ九つ目(つなぎここのつめ)
目結の名称は染文様の絞り染めにちなみ、別名を「鹿子絞り」
「纐纈(こうけち)」という。武具の意匠に多く使われたことから、
家紋としては尚武的意義によると思われます。

一つ目結は『釘抜紋』に似ていて区別しにくいですが、
釘抜紋は釘抜きの座金が由来なため、なかの目が少し大きい。

目結紋の使用家
  佐々木、椎屋、斎藤、亀井、京極、朽木、宗、本庄、
  能勢、吉野、高山、馬場など
目結紋の使用地域
  青森、岩手、秋田、京都、長崎
 
西教寺
 
 
 滋賀県大津市の西教寺は聖徳太子が創建に関わり、室町時代に真盛上人が再興した天台真盛宗総本山。戒律・念仏の道場として、一日も絶えることなく念仏が唱えられています。

 織田信長による比叡山焼き打ちで焼失した後、明智光秀が復興に大きく力を注ぎ、境内には光秀と明智一族の墓が祀られています。そして、この西教寺の総門は坂本城の城門を移築したもので、鐘楼の梵鐘は坂本城の陣鐘で明智光秀が寄進したものと伝わっています。

❖ 西教寺の「身代わりの手白猿」
 室町時代の明応2年(1493年)に坂本で徳政一揆が起こったとき、
その首謀者が真盛上人と噂が流れ、血気にはやった山門の僧兵が西教寺に攻め入りました。

 しかし境内には人影がなく、本堂からは、ただ鉦の音だけが本堂から聞こえてきました。それを聞いた僧兵が本堂に駆け込むと、そこには一匹の
「手白の猿」が上人の身代わりになって鉦をたたいていました。
「日吉山の王の使者である猿までが上人の「不断念仏」の教えを受けて念仏を唱えているのか!」と感じ入った僧兵はその場を去った
という逸話が今に残っています。
そういう訳でしょうか。屋根の上の鬼瓦としてお猿さんがいっぱいいます。


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❖ 西教寺 護猿(ござる)
真盛上人と西教寺を救った「身代わり猿」は護猿(ござる)と呼ばれ、
あらゆる災難を守ってくれています。

❖ 西教寺 瓦猿(かわらざる)
また瓦猿(かわらざる=変わらざる)の意で、平穏無事を願うともいわれています。


❖ 日吉大社 神猿(まさる)
日吉大社には神の使いの猿「神猿(まさる)」は「魔が去る」「勝る」に通じる魔よけの象徴として大切に扱われています

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家紋は「三羽雀」?       又は「六角三つ雀」?
西教寺には猿の瓦がたくさんあり、とても楽しいです。
 
 
「竹林に遊ぶ雀」の軒丸瓦
   
 
 
 
西旧中山道茂田井宿
 
鍾馗さん・・・1
眉がとても長いです!

鍾馗さん・・・2
「影盛」を背負っています!

台座に付いているのは蔦紋を丸で
囲んだ家紋です。新選組で活躍した
藤堂平助が使用していた家紋、
日本海軍の東郷平八郎の家紋も、
この「丸に蔦紋」だそうです。
   「蔦」の文字の意味
 「蔦」の文字にも、とても美しい意味があります。
草冠は「草」で大地を、その下にある「鳥」は空を表し、大地と
空を意味しているそうです。蔦は地面から生えるものですが、
どんどん弦を延ばして上へ空へと昇っていきます。その様子が、
そのまま漢字として使われるようになったと言われているそうです。
 徳川家・八代将軍の吉宗も、蔦をとても愛していたと言われています。
吉宗は、自分がいなくなった後に自らの血が絶えることを心配し、
「一橋
(ひとつばし)」「田安」「清水」という三つの家をたてました。
この三家も徳川家なので「葵紋」を使用していますが、「
裏紋」は「蔦紋」です。
 ちなみに、このうちの「徳川一橋家」の子孫が、徳川家最後の将軍
となる徳川慶喜です。「吉宗」が使用したことで、蔦紋は「葵紋」
につぐ権力の象徴として扱われるようになったそうです。
  「影盛」について
この鍾馗さんの後部に白く囲んだものが見えますが、これは「影盛」
といいます。箱棟が大きくなると軒を飾る鬼瓦も大きくしなければならず、
屋根に重量が掛かってしまいます。このため木の骨組みを作り、
漆喰を塗り込めて重量を軽減します。こうして鬼瓦のボリュウム感と
全体のバランスを取ります。漆喰を使い鏝(こて)による細工
になりますので、左官職人さんが影盛を作ります。
鍾馗さん・・・3
眼を見開いて悪を見張っています?

鯉に乗っている人物と言えば、
琴高仙人でしょうか。
 
  琴高仙人(きんこうせんにん)とは
中国・周代の人で琴の名手です。長寿の仙術を使って800年も生きたと云われています。ある時「龍の子を捕らえて見せる」と弟子たちに約束して川の中に入り、約束の日に大きな鯉に乗って現れ人々を感嘆させたと伝えられています。

多才な芸術家であった光琳が、宗達など やまと絵系の作品はもちろんのこと、狩野派など漢画系の画跡をも習得した結果到達した光琳独自の画境といえます。本図は、江戸後期の琳派の画家酒井抱一(さかいほういつ)編纂の『光琳百図』中に収録されているそうです。
左図はMOA美樹館に展示されている「尾形光琳」作・
紙本墨画淡彩の一部分を写したものです。
 
一部破損していますが、鶴の鬼瓦です。
 
 
 
天寧寺 中朱雀門
東京都青梅市にある「天寧寺」の中雀門で使われている鬼瓦。
 
 
 
北摂宝塚 紫雲山 中山寺 本堂
 
屋根の頂にある鯱瓦には、鱗ではなく蓮華の花があしらわれています。
寺院なので鴟尾(しび)と言うべきかもしれません。       
鬼瓦の先には龍頭があります。
古来より「星下り」や「ここのかび」と親しまれている毎年8月9日に開催される「中山寺星下り」は、花山法皇が西国三十三所観音巡礼を復興した頃、大供養を行っていた弁光僧正の前に観音様が現れたことから継承されている霊話です。
江戸時代初期、播州三木の卜部左近という修行者が、「お姿を現して下さいますように」と観音堂で一心に真言を唱えていると、雅楽を奏でる音が聞こえ始め、空を見上げると三十三所の観音様が居られました。そして星が降るように下りてこられ、入られた所に左近も続いて入ると、そこは現世の百倍はあろうかという明るさの極楽浄土でした。
 
8月9日に中山寺にお参りすると、西国三十三所観音霊場を全てお参りしたことになり、また「四万六千日」お参りしたのと同じ功徳があると言われています。この数の由来は一説に、一升に米粒が四万六千入り、「一升」は「一生」と同じ発音から、四万六千は一生を意味すると伝わります。
 
 
 
亀に乗った仙人。亀の立派な尾の先が2本折れています。
 
鐘馗さま
 
 
道の古寺の屋根の 「鬼瓦」 を紹介しま
尾道の方の個人サイトに面白い鬼瓦たちが紹介されています。
とても素晴らしい数々の「鬼の姿」を拝見できますよ。
このあたりの景色とは微妙に違いがあるように見えるのですが、
いかがでしょうか。
 
「おにさんこちら」は作者の文章・画像ですが、こののページについてはネットで
出会った素敵なページや友人の一部屋などをお借りして修正し掲載しています。