芭蕉は、正保元年(1644)、伊賀上野(現・三重県伊賀市)の松尾与左衛門の次男として
誕生しました。次男であったため、士大将藤堂新七郎家に奉公し、藤堂家では嫡子の
良忠(蝉吟)に近習役として仕えました。良忠は京都の北村季吟から俳諧の教えを受けており、
芭蕉も俳諧に親しんでいきます。

 しかし、23歳のときに主人の良忠が亡くなると、藤堂家を去ります。
29歳で江戸に移住し、34・35歳の頃に俳諧宗匠として独立します。その後、
日本橋から深川(現・東京都江東区)に移住し、俳諧の道を究めることに専念しています。
 
 元禄2年(1689)3月27日~9月6日 芭蕉46歳のとき。
芭蕉は門人曾良を伴い江戸を発ち、奥羽・北陸の各地をめぐり、
8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約六百里(約2,400キロ)
日数約150日以上にも及ぶ長旅でした。
 旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を
探り、古人の詩心に触れようとしました。
芭蕉は各地を旅するなかで、永遠に変化しないものごとの本質
「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」がある
ことを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする
「不易流行」説を形成していきます。また旅をした土地の
俳人たちとの交流は、その後の蕉門形成や、
紀行文『おくのほそ道』に大きな影響をもたらしました。
 『おくのほそ道』は随行の曾良が旅の事実を書き留めた
『曾良旅日記』と相違があり、芭蕉は文芸作品として執筆して
います。和漢混交文の格調高い文章でまとめられ、芭蕉の紀行文
としては最も長編で、質的にも生涯の総決算的な意義をもちます。
書名は文中の「おくの細道の山際(やまきは)に十符(とふ)
の菅(すげ)有(あり)」の地名からついたようです。
芭蕉自筆本、素龍清書本、曾良や去来へ伝えられた本があり、
去来の本を元に刊行された版本が現存しています。
 
『おくのほそ道』は元禄15年(1702)に発行された紀行俳諧で、
日本の古典文学では代表的な紀行作品です。僧侶であり歌人の西行を崇拝していた芭蕉は、
彼の500回忌となる元禄2年(1689)に門人・曾良を連れて江戸を発ちました。
約150日間で東北・北陸を回ったあと、元禄4年(1691)に江戸に帰還。
この旅の記録は、同行した曾良の随行日記にも記されています。
 
  ❖ 漂泊・旅立ち  (春) 
季語はアンダーラインで示しています)
 
芭蕉庵を出発するときに詠んだ発句です。芭蕉はこの句を含んだ表八句を
懐紙にしたためて、江戸・深川の家の柱にかけて出立しました。
 
草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
旅の第一歩として旅日記の一句目に記したものです。
 
行春や 鳥啼魚(とりなきうお)の 目は泪(なみだ)
  
  ❖ 日光  (初夏)
 
詠んだ俳句のうち、「あらたうと」の句は、特によく知られています。
 
あらたうと 青葉若葉の 日の光
 
(そり)(すて)て 黒髪山に 衣更 (ころもがえ)  河合曾良
 
暫時(しばらく)は 瀧に籠るや 夏の初(げのはじめ)
  
  ❖ 那須野・黒羽・雲厳寺  (夏)
 
那須野・黒羽・雲厳寺で詠んだ俳句1句ずつです。
 
かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名成べし  河合曾良
 
夏山に 足駄(あしだ)を拝む 首途哉 (かどでかな)
 
木啄(きつつき)も 庵(いお)はやぶらず 夏木立 (なつこだち)
 
  ❖ 殺生石・遊行柳・白河の関  (夏)
 
九尾の狐(玉藻の前)伝説の残る殺生石と西行の遊行柳(ゆぎょうやなぎ)に到着。
「白河の関」までが一つの関門だったらしく「ここまで来れた~」という気持ちが
「奥の細道」の紀行文から伝わります。

 
野を横に 馬牽(うまひき)むけよ ほとゝぎす  
 
一枚 て立去る 柳かな
「季語 : 田植え
 
卯の花を かざしに関の 晴着かな    
≪河合曾良≫
「殺生石」の伝説
この地に伝わる「殺生石伝説」は、平安時代初めの鳥羽上皇の逸話です。

平安時代に、古代からインドや中国を荒らし回った妖狐「白面金毛九尾の狐」が、
とうとう日本へやって来ました。そして、妖狐は、「玉藻の前」という絶世の美女に
化身して、帝(鳥羽上皇)の寵愛を受けるようになったのです。

帝の命を奪い日本を意のままにしようとした「玉藻の前」は、陰陽師の阿部泰成によってその
正体を見破られ、本来の姿(九尾の狐)になって、「那須野が原」へ逃げ込んだのでした。
朝廷は、すぐさま上野介広常と三浦介義純に命じ、8万もの軍隊を派遣して「九尾の狐」を
退治させました。妖狐は射殺され、巨大な石となります。
そして、その怨念は毒気となって、それ以来、近づく人や鳥獣を殺し続けたのでした。

時はくだり、室町時代にこれを伝え聞いた名僧・源翁和尚が、この地を訪ねます。
そして、術をかけた杖をさして一喝すると、巨石はパッカーンと3つに割れました。
3つに分かれた石の1つは会津へ、1つは備後へと飛んで行き、残った1つがこの地に残り
「殺生石」として、今も語りつがれているのでした。

3つに割れて効力は薄まったかもしれませんが、「殺生石」の霊力はまだ残っています。
那須温泉神社の境内には、今も、妖狐の御魂を鎮めるため「九尾稲荷神社」が
祀られているのだそうです。

 
芭蕉と曾良と「殺生石」
 松尾芭蕉と河合曾良は、大関藩の館代に一族を上げての大歓迎で迎えられます。
館代の弟が門人の桃翠(翠桃)だったというのもありますが、当時、すでに芭蕉が
俳諧師として大人気だったというのが、よく分かります。
 そこで、芭蕉たちは、彼らから平家物語で有名な「那須与一」と縁のある神社や、
謡曲の題になった「殺生石」の話を、くわしく聞いたのです。芭蕉は源氏が大好きなので、
「那須与一」ゆかりの神社には、是非とも行きたかったでしょう。

帝の寵愛を受けた美女・玉藻の前に化けた九尾の狐が、退治されて変化したといわれる石にも
興味を持った彼らは、早速見に行くことにしました。
「殺生石」は、那須湯本温泉の近くにあり、付近には、今でも温泉地にありがちな
有毒ガス・硫化水素ガスが出ているのです。石から発生しているのではなく地下からですが、
昔は、今よりずっと強烈なガスが出ていたようです。そして、付近の地温は80〜90度と
高温で、発生する硫化水素ガスは空気より比重が重いので、
「殺生石」のような谷間の窪地にガスがたまりやすかったのでした。
昔の人は、それが有毒ガスによるものとは分からなかったので、
「妖狐の怨念」で石が霊力を持ったと考えていたと思われます。
 
  ❖ 須賀川・朝積山・信夫の里  (夏)
 
風流の 初(はじめ)やおくの 田植うた
 
世の人の 見付ぬや 軒の  「季語 : 栗の花
 
早苗(さなえ)とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)
 
  ❖ 飯塚の里・笠島・武隈の松  (夏)
 
(おい)も太刀も 五月にかざれ 帋幟(かみのぼり)
 
笠嶋は いづこさ月の ぬかり道
 
桜より 松は二木を 三月越し
 
発句ではないので季語がなくてもいいそうです。
桜より三カ月後とあるので「夏」だとわかります。
 
  ❖ 宮城野・松島  (夏)
 
あやめ草 足に結ん 草鞋の緒(わらじのお)
 
松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす  ≪河合曾良≫
 
 ❖ 平泉  (夏)
 
「奥の細道」の俳句と言えばこの3句。どの句もとても有名です。
始めの2つは、芭蕉と曾良が同じ場所(平泉)で詠んだ俳句です。

芭蕉は、江戸・深川を出発してから44日目、5月13日に、奥州平泉を訪れ、夏草が生い茂る
荒野の風景を目の当たりにしました。 岩手県南西部に位置するこの地は、11世紀末から
12世紀にかけての約90年間、藤原清衡(きよひら)に始まる奥州藤原氏が、栄華を極めた
都市です。そして、兄・源頼朝に追われた義経が最期に身を寄せた場所でもあります。 
俳句の前の散文で奥州藤原氏の滅亡に触れているので、
500年前のこの地であったことに想いをはせて詠んだとわかります。
この地に立って、芭蕉は、500年前に滅んだ藤原三代の栄華と源義経の最期に、
想いをはせて詠んだとわかります。
杜甫の名句「国破れて山河在り 城春にして草木深し」とつぶやき、
時を忘れて涙を流したと、『奥の細道』に記しています。

 
夏草や 兵どもが 夢の跡
 
意味
高館にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る
風景が広がるばかりだ。(この夏草を眺めていると、すべてが夢と消えた儚さに心が誘われる)
ここで同行者の ≪河合曾良≫ も句作しています。
義経主従が藤原泰衡の軍勢と戦ったとき、白髪を振り乱して、勇猛果敢に奮戦し壮絶な最期を
遂げた老臣・増尾
兼房を想って詠ん詠んだ曾良の句です。
義経の老臣・兼房は、高館最期の日に、義経一家の最期を見届けた後、
館に火を放ち、敵の大将ともども火の中に飛び込み、壮絶な最期を遂げたと伝わります。
白い「卯の花」から「兼房の白髪」を連想して、当時に想いをはせて詠んだものです。
(兼房は架空の人物ともいわれます)
 
卯の花に 兼房(かねふさ)みゆる 白毛(しらが)かな  ≪河合曾良≫
 
続いて、芭蕉は平泉の中尊寺を訪れ、美しい金色堂を参詣しました。
この句も先のと同じく、移り変わる人の世と、時が流れても変わらず光り輝く「光堂」との
対比が、感じられます。松尾芭蕉は、この平泉に午前中3~4時間ほど滞在したと伝わっています。
 『奥の細道』に記載されているのは、ほぼ史実どおりですが、経堂はこのとき実際は
閉じられていて、芭蕉は中を見ていません。経堂に「三将の像」があると記していますが、
実際にあるのは光堂です。これは、芭蕉が勘違いしたのではないかといわれています。
 ちなみに、当時、金色堂(光堂)を保護していたのは、やはり仙台藩伊達家でした。
 
五月雨の 降(ふり)のこしてや 光堂
意味
  あらゆるものに降り注ぎ、朽ちさせる五月雨も、
  この「光堂」にだけは雨を降らせず残してくれたかの
  ようだ。500年経っても「光堂」は
  色あせずに美しいままだ。


光堂 _ (ひかりどう)は、中尊寺の「金色堂」を指します。
 
  ❖ 尿前(しとまえ)の関・尾花沢  (夏)
 
(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと
 
涼しさを 我宿(わがやど)にして ねまる也
 
這出よ(はいいでよ) かひやが下の ひきの声
 
まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
 
蚕飼(こがい)する 人は古代の すがた哉  ≪河合曾良≫
 
  ❖ 石立寺・最上川  (夏)
 
山形県の石立寺と最上川で作ったこの2つの俳句も、よく知られた松尾芭蕉の代表作です。
 
閑さや 岩にしみ入 蝉の声
五月雨を あつめて早し 最上川
 
  ❖ 出羽三山  (夏)
 
有難や 雪をかほらす 谷  「季語 : 南薫」
 
涼しさや ほの三か月の 羽黒山
 
雲の峯 幾つ崩て 月の山
 
語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな
 
湯殿山 銭ふむ道の 泪(なみだ)かな  ≪河合曾良≫
 
  ❖ 鶴岡・酒田  (夏)
 
あつみ山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕すゞみ
 
暑き日を 海にいれたり 最上川
 
  ❖ 象潟(きさがた)  (夏)
 
象潟(きさがた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花
汐越(しおこし)や 鶴はぎぬれて 海涼し
 
象潟(きさがた)や 料理何くふ 神祭  ≪河合曾良≫
 
(あま)の家や 戸板を敷て 夕涼
 ≪美濃国の商人・低耳(ていじ)作≫ 
 
波こえぬ 契ありてや みさごの巣  ≪河合曾良≫
 
  ❖ 越後路・市振(いちぶり)  (秋)
 
文月や 六日も常の 夜(よ)には似ず
 
荒海や 佐渡によこたふ 天河
 
一家(ひとつや)に 遊女もねたり と月
 
  ❖ 那古(なご)・金沢  (秋)
 
わせの香(か)や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)
 
塚も動け 我泣声は 秋の風
 
秋涼し 手毎(てごと)にむけや 瓜茄子(うりなすび)
 
あかあかと 日は難面(つれなく)も あきの風
 
しほらしき 名や小松吹(ふく) 萩すゝき
 
  ❖ 小松・那谷寺(なたでら)  (秋)
 
小松の多太神社を参詣し、「源平の争乱」で散った源氏の老武将・斎藤実盛を想って
詠んだ俳句です。松尾芭蕉は、源氏びいきで、特に木曽義仲に思い入れがありました。
「平家物語」でも有名なエピソード「実盛の最期」の聖地に立てて感動したのでしょうか。
むざんやな 甲の下の きりぎりす
 
石山の 石より白し 秋の風
 
  ❖ 山中温泉・全昌寺  (秋)
 
山中温泉で、同行していた弟子の河合曾良が体調を崩してしまいます。
曾良は旅を続けるのが困難になり、ここで芭蕉と別れ療養することになりました。
曾良の「行行て」の俳句にそのことが記されています。
 
山中や はたおらぬ 湯の匂
   
行行て(ゆきゆきて) たふれ伏(ふす)とも の原  ≪河合曾良≫
  
今日(きょう)よりや 書付(かきつけ)消さん 笠の
 
この句で、芭蕉は曾良の離脱を悲しんでいます。
「笠の露」にその気持ちが表れているのだそうです。
 
  ❖ 全昌寺・汐越の松・天龍寺・永平寺  (秋)
 
終宵(よもすがら) 秋風(きく)や うらの山
 
庭掃(にわはき)て 出(いで)ばや寺に 散柳(ちるやなぎ)
「季語 : 柳散る」  
 
物書て 引さく 余波哉(なごりかな)     「季語 : 扇置く」
 
  ❖ 敦賀・色の浜  (秋)
 
清し 遊行(ゆぎょう)のもてる 砂の上
  
名月や 北国日和(ほくこくびより) 定(さだめ)なき
  
寂しさや 須磨にかちたる 濱(はま)
 
波の間や 小貝にまじる の塵
 ❖ 大垣
 
蛤の ふたみにわかれ 行秋(ゆくあきぞ)
 
芭蕉は1689年(元禄2年)3月に江戸を出発し、東北の旅に出ました。
その旅の最後が、岐阜県「大垣」。「奥の細道」のゴールです。
3月から8月、約150日間もの長旅でした。
大垣の俳句も旅の最後の句ということで、よく知られています。
芭蕉がここに到着したとき、たくさんの弟子が先に来ていて芭蕉を迎え入れてくれたそうです。

体調不良で離脱した河合曾良も来ていて、ここで再開を果たせました。
 
『奥の細道』の最後の句(結句)について
 
芭蕉は、露通と共にそのまま大垣に着き、元大垣藩士の武士で、
もう隠居している門人
「如行(じょこう)」の家に温かく迎えられます。
旅のゴールは、美濃国(岐阜県)の「大垣」です。 

ついに、芭蕉が旅の終着地に着くという知らせをうけとった、蕉風グループの多くの
門人たちは、喜び勇んで美濃国(岐阜県)大垣に迎えに行きました。 

敦賀の港には、まず「露通(ろつう)」が迎えに来ていました。
 
露通は、この『奥の細道』の旅の道連れ候補だった人なのです。
彼は、素晴らしい俳句を作る人なんですけど、めっちゃいい加減な性格をしていたのです。

それで、彼にはマネージャー役はとても務まらないだろうということで、
しっかり者の曾良に決まったのでした。

 
その曾良は、この旅の途中、山中温泉で腹痛のため衰弱してしまい、芭蕉と別れて療養するために
伊勢に向かいました。芭蕉の足手まといになってはいけないので、伊勢の縁者の所へ行って
ゆっくり体を治すことにしたのです。

曾良と別れるとき、芭蕉はすっかり落ち込んで心細い思いをしたようですよ。
 
芭蕉がとうとうゴールすると聞いた「曾良」は、伊勢から大垣へやって来て、待っていたのでした。
さらに、門人の「越人(えつじん)」も、馬を走らせて会いに来ました。 
次々とお祝いに門人たちが駆けつけます。
芭蕉は、そのときの様子を、「まるで生き返った人間でもあるかのように」、
みんな再会を喜んでくれたと記しています。
このときの様子から、蕉風グループの温かさと団結力が、伝わります。
大垣で数日過ごすと、芭蕉は、もう次の旅に出ます。
10日に行われる伊勢神宮の遷座式に間に合うようにと、9月6日、再び舟に乗ったのでした。

 そして、ここで、この旅の最後の一句(結句)を詠みます。
この結句は ≪西行≫ の和歌を意識して作ったのではないかと伝わっています。
 
今ぞ知る 二見の浦の はまぐりを 貝をあはせて おほふなりけり ≪西行≫
 
 
 蛤の ふたみにわかれ 行秋

≪奥の細道 最後の句 ≫
伊勢のハマグリの「ふた」と「み」がなかなか切り離せないような、
離れがたい思いを振り切って、私はこの懐かしい人々に別れを告げ、
二見浦のほうに向かって、新たな旅の一歩を踏み出します。
秋が行き、冬に向かうこの時節に。
 
ハマグリの「蓋と身」向かう伊勢の「二見ヶ浦」(地名)を掛けています。
あとは、この結句の
「行秋ぞ(ゆく秋ぞ)」と、旅の始めの旅立ちの句「行春や(ゆく春や)」
呼応させています。春に旅立ち、秋に旅が終わったと、強調させているのだそうです。

行春や 鳥啼魚の 目は泪

≪ 旅立ちの句 ≫


『奥の細道』の最後の地・大垣に、芭蕉は15日間ほど滞在したようです。 
そこでたくさんの門人たちに祝福され、また、次の旅に出たのでした。
奥州路の旅は終わりましたが、これからも芭蕉の「旅を住処(すみか)」とする日々は、続きます。