面の木散策
 
 
安城市和泉町中本郷180-1
   電話 0566-92-7780
   開苑 9:00~17:00
   休苑 毎週月曜日(その他詳細はお電話で)
   入苑 100円
   呈茶 350円
 
丈山苑は、詩仙堂のイメージをそのままに、石川丈山生誕の地・和泉に再現したものです。
 四季折々の風情を楽しみながら、お抹茶をいただきに、時折訪ねています。
 
この辺りでは珍しく白銀の世界に出会えました。
 
外門をくぐると竹林です。
 
中の門までせせらぎ沿いに落葉と雪を楽しみます。
 
  
 
 
 
 
 
 
 
中の門を通り、雪が融けてしまう前に外から庭を拝見します。
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
雪が融けはじめました。
 
 
苑内をお掃除するおじさんに、少しの間落ち葉を掃かないでくださいってお願いしました。
「今日はお客様がいないので、ゆっくりしていきな」って・・・(御礼)
 
 
 
丈山苑、入口の鎖樋に “氷と水の芸術” です。
 
屋根の雪が融けだしました。
 
鎖樋に氷の贈り物です。
 
苑の中を拝見。今日のお菓子は “寒椿” です。
 
 
石川丈山
江戸時代初期の武士・文人として名高い石川丈山(いしかわじょうざん)は、
碧海郡泉郷(現在の安城市和泉町)の生まれです。
後半生は、武士を捨て京都・一乗寺に終の棲家として詩仙堂を建て、
その場所ですごしました。江戸時代初めのことでした。
丈山苑は、その詩仙堂のイメージを生誕地に再現したものです。
自適に生きた丈山のこころを、四季折々の草木をとおして感じることができます。
 
石川丈山は天正11年(1583年)三河国碧海郡泉郷(現在の安城市和泉町)で
生まれる。5歳の時に疱瘡かった際、竹刀で鼻の膿を潰しても決して泣かない、
強い子供だったそうです。生涯独身で90歳まで生きました。
武人 、漢詩人 、茶漢詩人 、茶、書家 、作庭書家 、作庭。終の栖(すみか)
として建てた京都の詩仙堂は有名。
丈山作の漢詩「富士山」は、今でも詩吟で親しまれています。
 
仕えた武家
徳川家康(徳川家)、藤堂家、浅野家。
 
お友達
狩野探幽 :狩野派の絵師。江戸時代絵画の基礎を作る。
林羅山  :江戸幕府の御用儒学者。身分の低い市井の人が学問を学ぶための
      足掛かりを築いた。
藤原惺窩 :戦国~江戸初期にかけての儒学者。朱子学を究め多くの門人を輩出。
本阿弥光悦:江戸初期の芸術家。陶芸、漆芸、茶の湯、書など、
      当時の芸術全般の隆興に深く関わった多彩な文人であった。
後水尾上皇:第108代天皇。詩歌に優れ、歌集「鴎巣集」を遺す。
      修学院離宮の造営でも有名。
松花堂昭乗:江戸初期の真言宗僧侶。書道、絵画、茶道に堪能で、
      特に能書家として高名。
 
身長は90cm。  ※昔の単位で言うと6尺6寸。
江戸時代の人の平均身長が155cmぐらいだったことを考えると、かなりの大男でした。
 
 
苑の入口の灯り採りの小窓。
ここの苑にはおしゃれなデザインの小窓が取り付けられています。
 
 
 
 
 
 
 
最後に雪の贈り物を数枚・・・。
 
 
 
 
 
  
詩仙堂について 
所在地 京都府京都市左京区一乗寺門口町27
 
詩仙堂は、徳川将軍家の家臣であった石川丈山が寛永18年(1641年)に隠居のため、
59歳の時に造営した山荘である。
丈山は寛文12年(1672年)に90歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。
後に寺院化されると、丈山にちなんで寺名は丈山寺とされた。

詩仙堂の中心となる建物は凹凸窠(おうとつか)と呼ばれる。
凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、
建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。
丈山は建物や庭にある10個の要素を「凹凸窠十境」と見立てた。
現在では凹凸窠の中にある36詩仙(大陸の詩家36人)の肖像を掲げた詩仙の間に
ちなんで詩仙堂と呼ばれている。
詩仙は日本の三十六歌仙にならい、丈山は林羅山と意見を交わしながら
漢、晋、唐、宋の各時代から選出した。
肖像は狩野探幽によって描かれ、詩仙の間の四方の壁に掲げられている。

庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された庭園「百花塢(ひゃっかのう)」
は四季折々に楽しむことができ、
特に春(5月下旬)のサツキと秋(11月下旬)の紅葉が有名で観光客で賑わう。
縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつ。
一般にししおどしとして知られる、添水(そうず)と呼ばれる仕掛けにより
時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに、
静寂な庭のアクセントになっており丈山も好んだという。