ネタコラム


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“万に一つも価値が無い?” “鬼さんが転んだ”
“不可逆反応への不可解な見解” “縮み逝くセカイの中で”
“終息宣言はフラグ” “蛇足と画龍点睛と”

“万に一つも価値が無い?” 10.1/27 メニューへ
 いささか時機を逸してしまった感もないではないが、
年の始めということで、親戚縁者からお年玉を貰ってホクホクという人もいるのではないだろうか。
・・・年齢層的にいないかもしれないが。
 ともかく幼少期にポチ袋を開けて、中に一万円札を見つけた時には、
「これで何でも好きなものが買える!」
と小躍りしたくなるほど、その一万円札に無限のエネルギーを感じた記憶がある人も多いだろう。

だが、本当に一万円札で何でも好きなものが買えるのだろうか?

・・・別に今のお子様の欲しがる玩具が一万円じゃ足しにならないとか、携帯の一ヶ月の使用料がそれ以上だ、 とかそういうことを言いたいわけではない。
その一万円札は本当にどんな時でも『一万円』分の価値があるのか?と言いたいのである。
 例えば、こんなシチュエーション。
木枯らし舞う寒い冬の田舎道。
周囲には店も何もないその田舎道沿いに、ふと自動販売機が立っているのが目に入る。
温かい飲み物で凍える指先、そして体を温めようとその前に立ち、財布をまさぐると・・・
一万円札一枚と五十円玉一つ、十円玉が三つ入っていた。

さて、この場合の所持金は10,080円
120円の缶コーヒーであれば、7ダース買える金である。
 だが、実際に買える缶コーヒーの本数はゼロである。
最高価値を持つ一万円札を持っていながら何も買えないとは、何とも釈然としない結果ではないだろうか?
これではこの一万円札はまるで狐に化かされて、元に戻った木の葉のお札のようではないか。
 このような一万円札の持つ額面価値の一時的喪失は、それに未対応である自動販売機のような機械的な原因によるものだけではなく、 心理的な原因によっても発生する。
例えば、十分なお釣りを用意していない学祭等の模擬店や同人誌即売会等においては 一万円札での購入は忌避されるため、心理的に買うことができない
・・・反感を買うことはできるかもしれないが。

 このように最高の額面価値を持つ一万円札でも、それのみでは通用しないシチュエーションというのが存在することがお分かり頂けただろうか?
では、逆に最低の額面価値である一円玉を10,000枚持っていればよいかというと、むしろより使いどころが限定される。
それは五円玉2000枚だろうと十円玉1000枚だろうと五十円玉200枚だろうと百円玉100枚だろうと五百円玉20枚だろうと通用しないシチュエーションが多々存在するという点で同じだろう。
というわけで、最大効果を持つからといってそれ一辺倒だったり、同価値のもののみを沢山集めても万全の価値があるとはいえない。
様々な状況に対応するためには比率は別として、様々な価値を持つものが混在している方がよい・・・
というような概念がここ数年妙に取り沙汰されている『多様性の保全』だと言ったら、
アナタは信じるだろうか?

“鬼さんが転んだ” 10.4/25 ネタ一覧へ
 またしてもいささか時期を逸してしまった感がないでもないが、 風邪が蔓延し、周囲の人が次々にその毒牙にかかっていく中で、 なかなか罹らない人がいたとする。
周囲の人がその人は丈夫な人だと認識し始めた頃に、その人が風邪に罹り、 中々回復しなかった・・・そんな経験はないだろうか?
このように体が丈夫な人ほど、いざ風邪に罹った時の症状が重いということは多々見られる事例である。
人、それを鬼の霍乱という。

・・・別に治り難さについてまでは言及していない気がしないでもないが。
ともかく、丈夫な人ほどいざ病気になると症状が重い、ということは本当にあるのだろうか?
丈夫なんだから、病気になっても症状が軽い方が自然というものではないだろうか?
つまりこれは俗にいう『映画のジャイアソいい人理論』
もしくは『不良が捨て猫に餌をあげている場面』のように、 単に普段とのギャップにより、正反対の印象が強化されているだけな気がしないでもない。

 だが、実はそうではないのかもしれない。
丈夫であるということの代名詞的な『病気になりにくい』とは、『病気への耐性が強い』とは別に、 単に『病気へのキャパシティ(許容量)が大きい』だけの場合もあるかもしれないのだ。
そうであるならば、やはり丈夫な人ほど病気になると治り難く、大事に発展する可能性があるといえる。
 これはどういうことかというと、 体の弱い人=病気へのキャパシティの小さい人の場合、病気に罹った際に初期症状がすぐに現れ、その時点で対処しやすい。
だが、丈夫な人=病気へのキャパシティが大きい人の場合、病気に罹った際に初期症状の段階では表面的にあまり変化がなく、 より症状が進行して初めて表面的に病気が顕在化するということである。
そして、その時点では既に簡易療法では対処できなくなっているため症状改善までに時間が掛かる、というわけだ。
さらにやっかいなことに、このキャパシティというのは絶対的な指標ではなく、 『自分は病気には強い方だから〜』や『アノ人は丈夫だから〜』のように本人や周囲が勝手に設定している場合も多い。
その根拠のないキャパシティ設定がより鬼の霍乱を引き起こしやすくなっているといえる。
これは喩えるならば、サーキットプロテクタ(以下CP)の設定をモーターの許容電流よりも大きめに設定してしまい、 回路が遮断されるよりも前にモーターが焼けてしまう、というような状態である。
(例:モーターの許容電流が10Aなのに30AのCPをつけている)
逆にCPの設定をモーターの許容電流よりもかなり小さめに設定してあると、 モーターに少し負荷がかかるだけで回路が遮断してしまい、役に立たないが。
つまりちょっと頭が痛いだけですぐ休む人みたいなもの?・・・ってこれはまた別のお話なのでおいておいて。
 要するに重要な機構を守るために設定してある安全基準を 『丈夫だから病気になるはずがない』のような見栄・誇り等で鈍化させた結果、 重要な機構が損なわれる、という飛車を守って王を取られた結果が鬼の霍乱なのではないだろうか?
つまり鬼の霍乱とは、
鬼が鬼であろうとした結果起こった悲劇といえるかもしれない。


 人にしろ、機械(車)にしろ、初期段階で不具合が発覚した方が対処しやすい。
そして、その方が鬼であるよりも結果的に丈夫でいられるのではないだろうか?

“不可逆反応への不可解な見解” 11.4/30 ネタ一覧へ
『マスコミは、いつもそうだね。
若年犯罪者がサブカルに興味を持っていた事実を知ると決まって同じ反応をする。
わけが分からないよ。
どうしてマスコミは人格形成へのサブカルの寄与だけに拘るんだい?』

などと、某営業マスコット形状白い生き物っぽい書き方をしてみたが、 要するに特殊な若年犯罪が発生するたびにマスコミが多用する単純な構図・・・
○○という作品(ゲーム・漫画・アニメ)に類似した表現があった→
容疑者の部屋から○○という作品が見つかった→
この作品の影響でこのような犯行を起こしたのだろうか?→
この作品(と類似したものも含め)を規制すべきではないか?

に辟易しながら、ふとこの構図の持つ真の意味に気付いてしまった・・・気がした。
この単純な構図『○○の影響で犯罪者になった』が指し示しているのはこうなのだろう。
『常人に○○を加えると、犯罪者(予備軍)になる』

わぉ!なんという性善説に則った、ある意味子供だましな作品によく見られる悪役的な人間観!
仮面ライダー風味に喩えるなら、メダルを投入されて内なる欲望を開放されたのではなくて、 メダル自体が【悪の因子】みたいな感じだろうか?
なるほど○○が【悪の因子】であるならば、マスコミが毎度のように騒ぐのも合点がいく。
つまりあのように喧伝することで、『常人』が○○に触れ、 犯罪者(予備軍)へクラスチェンジしないようにしてくれているのである。
わぁ!優しいね、過保護なほど優しいね!
 だが、ここで先に述べたこの構図が持つ真の意味が問題となってくる。
それは既に○○に触れてしまった『常人』に対しても、 警告を発してくれているのであろうか?ということである。
例えば、某超常現象の解明を主体に始まったにも関わらず、後半はほとんどダイエット情報に終始した番組のように ダイエット情報というものは視聴者の興味を惹く題材としてマスコミに多用されている。
このダイエット情報というものは、本来ダイエットが必要でない人間に対しては注意喚起としての意味を持ち、 またダイエットが必要な人間に対しても生活改善の契機の提示足りうるものである、表面的なものだとしても。
簡単にいえば、『××をする(食べる)と肥満になりますよ、肥満の人は××をしない(食べない)ように意識すれば、 肥満が解消しますよ』という構図だ。
・・・実際のダイエット情報の多くは『□□を食べれば、△△しなくても肥満が解消しますよ』の方が多い気がするが、 ここでは理論が支離滅裂になるので置いておく。
つまりマスコミは先の○○に触れてしまった『常人』に対して、ダイエット情報同様に 『○○を取り除くことができれば、『常人』に戻れますよ』と喧伝しているのだろうか?
いわゆる普通の魔法少女モノの、怪物に乗っ取られたキャラを浄化すれば元通りになるかのような効果を 期待しているのであろうか?
これについては某ラノベの先駆けとなったファンタジー小説にある喩えの引用で説明するならば、 『アップルジュースにオレンジジュースを混ぜてミックスジュースにする方法は示せるが、 ミックスジュースからオレンジジュースだけを取り除く方法は分からない』というヤツである。
目に見えるミックスジュースからすらオレンジジュースを取り出せないのに、 目に見えない○○という【悪の因子】を人の心から取り除くことができるだろうか?
つまりマスコミの『常人に○○を加えると、犯罪者(予備軍)になる』
という構図の警告対象には、既に○○に触れてしまった『常人』
・・・いや、既に○○に触れてしまった結果、犯罪者(予備軍) になってしまったモノは含まれていないのだ。
 つまり、この構図が持つ真の意味とはこういうことである。
○○に触れてしまった時点で『常人』足りえず、 かつ犯罪者(予備軍)から○○を取り除くことができないというのであれば、 マスコミが対象としている視聴者層は他称・自称『常人』なのだろう。
つまり○○に触れたものを犯罪者(予備軍)としてレッテルを貼り、 他称・自称『常人』達から忌避させるためだけに喧伝している、といわざるを得ない。
 だが、彼らは気付かないのだろうか?
その構造を単純化させた喧伝もまた、
一度染み付いたら取り除くことのできない○○という【悪の因子】であることに。
場合によっては○○という【悪の因子】以上に大気も土壌も汚染するものだということに。

“縮み逝くセカイの中で” 11.8/19 ネタ一覧へ
アナタは見知らぬ街を歩いていて目的の建物が見つからない時、 自分の見ている風景に3Dアクションゲーム等におけるレーダーマップ・・・ではかえってわかりにくいか。
現在地と目的地が分かるマップが表示されていたらどれほど楽だろう、と考えたことはないだろうか?
かつてはSF映画の中でしか存在しえなかったそんな技術が近年、現実のものとなってきている。
それがAR(augment reality)。
日本語で表現するならば、【拡張現実】である。
簡単に説明するならば、【現実】(reality)に【仮想現実】(virtual reality)を少々融合させたもの、と考えればよい。
この【現実】と【仮想現実】の配分によって、定義が変わるので注意が必要だ。
例えば、仮想空間の中に現実の感覚を反映させたものは【拡張現実】ではなく、【拡張仮想】である。
(閑話休題)
先の例のように、見知らぬ街を歩いていても見ている風景にマップが重ね合わせることが出来て、 迷わずに目的地に着くことが出来たら、それはとっても嬉しいなって思ってしまうのでした。

・・・ではなくて、それは人間の認識力・処理能力に仮想現実を融合させることで、 本来の認識力・処理能力があたかも拡張されたかのような状態になっているといえるだろう。
 つまり【現実】に【仮想現実】を融合させることで、 人間の能力という【現実】はまだまだ拡張される可能性があるということだ。
人類の認識力の拡張・・・それはまさに人類の革新(ニュータイプ)といってよいかもしれない。
20世紀に夢見た未来がすぐそこまで来ているんだね!
だが、その【現実】と融合させるべき【仮想現実】の方が縮小されていっているとしたら・・・どうなるのだ?
そう、昨今何か事件があるたびに雨後の筍のように生えてきて、 とうとう一本がその伐採から逃れてしまった感のある表現規制の流れである。
『仮想現実の世界でけしからんもんを描いたり、作ったり、見たりできるから、
子供の心が穢れて、犯罪に手を染めるようになってしまうんじゃぁ!
仮想現実での表現(主に性的な意味で)を規制すべし!』

みたいな頭が沸いているとしか思えない、責任転嫁にすらなっていないアレのことだ。
 彼ら規制派が望むように【仮想現実】が無制限でなくなれば、 それに伴って拡張される【現実】もまた制限されるということである。
先の見知らぬ街の風景とそのマップの融合の例でいえば、
『この区画は子供にはふさわしくないお店が満載なので表示できません』
という規制のために虫食いでマップが表示されていたら、それは拡張された【現実】といえるだろうか?
 つまり【拡張現実】の未来にとって、表現規制派の存在は障害でしかないはずだ。
だが、こう考えることもできないだろうか?
彼らこそが【拡張現実】の最大の理解者であり、体現者であると。
なぜ、そんな突拍子もないことが言えるのか?
それは【現実の子供】が少々の【仮想現実でのいかがわしい表現】に触れただけで直ちに【悪影響】を及ぼす、 という規制派の理論と 【現実】に少々の【仮想現実】を融合することが【拡張現実】を生み出すという関係性が相似しているからである。
つまり規制派はようやく実用化に向けて動き出している【拡張現実】について、 既にその本質・負の側面まで含めて理解しているために【仮想現実】を敵視しているではないだろうか?
また我々凡人には規制派の主張は常に
『一体みんな何と戦っているんだ?』
という風にしか映らないが、 規制派には【拡張された現実の中で】見えない敵が見えていて、それと戦っていると考えれば、 この齟齬も説明がつくような気がしてならない。
 つまり規制派は我ら幼い人類が無制限な【拡張現実】により退廃していくことを食い止めるために、 【現実】ではなく【仮想現実】に制限を加えようとしているんだよっ!!!
Ω ΩΩ<ナンダッテー

・・・そんなわけ、あるわけない

“終息宣言はフラグ” 12.5/1 ネタ一覧へ
さて、ここにひとつの問いがある。
富士山は休火山か?死火山か?
あなたの答えはどちらであろうか?
『由来が不死山という説があるから、富士山は死なない、何度でも甦るさ!
ということで休火山!』

と答えた方は文学的素養があるかもしれないし、ないかもしれない。
さて、その答えは・・・CMのあと!


答えは・・・どちらでもない。

なんじゃそりゃ〜!?
という感じではあるが、事実なので仕方ない。
『そんなことはない!富士山は休火山と習った!』という方がいるかもしれない。
私もそんな気がします。

 そう、元々は今回の話。
政府や何やら偉い人達のような人達が何かある毎に出す【終息宣言】を見て・・・
休火山と死火山は違うのだ。ならば、問わねばなるまい。
その【終息宣言】が定義するのは、休火山としてか?それとも死火山か?
休火山であるのに、死火山であると定義して終息させようとしているだけではないのか?
みたいなネタでいこうと思っていたのだ。
しかし、現在では【休火山】【死火山】という分類はなく、活火山かそれ以外の火山という分類になっているらしい。
そうなった理由は、死火山として認識されていた御嶽山が水蒸気爆発を起こし、 死火山の定義自体が死んでしまうとはなにごとかしてしまったためである。
 つまり人間の尺度では自然現象たる火山活動の状態を正確に定義できない、ということなのだろう。
ならば問わねばなるまい
人間が制御できない物理反応に対して、終息宣言を出せるものなのかを。


 もっとも途中書きのまま放置したために、
このネタ自体が死火山になりかけているとかそんなことはないと信じたい今日この頃。

“蛇足と画龍点睛と” 13.2/10 ネタ一覧へ
「ゲームコンテンツでやれ」という気もしなくはないネタなのだが、 昔、BOXに【マジカルポップン】というSFCのアクションゲームがあった。
パッケージ絵を【プリンセスメーカー】の赤井さんが書いていたりもするが、 SFCなのでそれはパケ絵詐欺ということでおいておくとして・・・
ちなみにポップンのドットは、イメージ的には聖剣3のシャルロットの帽子を青くした感じ。

面の途中で手に入る様々なグッズを駆使したアクション(特にフックワイヤーを使った振り子移動) や可愛らしいドット絵など隠れた名作と言っても過言ではないと思われる。
難点はボスに攻撃を当てると一定時間アタリ判定(攻撃判定・くらい判定共に)が 消失してしまうため、ボスに張り付いて、アタリ判定が復活する直前に攻撃を連打していれば ほぼノーダメージで倒せてしまう、ということくらいか。
音楽も秀逸・・・なんじゃないかなぁと想像している。
・・・どうしてそんな感想なのかというと、このゲームをプレイしている時には 必ず音量をゼロにしていたのでちゃんと聴いた記憶がないためである。
そう、このゲームには唯一にして大きな欠点があるのだ。
なんと!このゲーム、ボイス付きなのである。
といっても長台詞をしゃべるわけではなく、攻撃時の掛け声だけなのだが、 その破壊力たるや筆舌に尽くしがたい。
例えば剣を振った時の声であるならば

「え゛っい゛!!」
としか表現できないようなものすっごい野太い音を吐くのである、仮にも可愛らしい金髪ょうじょが。

誰がこんなヒドイことを!と思い、パケ裏を見るとこんなことが・・・
「ポップンの声は○○○ちゃんがやっています!」
・・・なんと、この声がこのソフトの売りであるということなのである!
ちなみに○○○ちゃんとやらは、数年前に夭折したA=あれれ?こんなところにV=ビデオが?
界において一時期一世を風靡した女優だが、まぁ、早い話が異業種である。
異業種だからといってもキャラのイメージにあっていたり、
純粋に専業の人並かそれ以上に演技が巧い人もいるだろう。
しかし、前述のようにキャラのイメージにも、 純粋に声の演技としても決して褒められたものではないどころの騒ぎではないのである。
それを何を思ってか、このソフトの最大のウリとして起用してしまった製作サイドは頭の中に爆弾が!
・・・ではなく、頭の中が沸いていたとしか思えないのである。

つまり、このソフトを料理に例えるなら、よい素材(グラフィック・音楽)を揃え、 しっかり下拵え(アクションのバランス調整)をし、丁寧に調理しても、
最後にかけた自慢のオリジナルソース(声)
で全てを台無しにしてしまっている残念ゲーとしか言いようがないのだ。
特にこのゲームが発売された当時、掛け声にしろ主人公が声を発するゲームは それほど多くはなかったのである。
にもかかわらずウリとして追加したボイスが仇となってしまっている以上、 この評価は否定できないところだろう。

こういう、本来付け足さなくてもよいものを付け足した結果、 台無しにしてしまうということを表す故事成語として有名なのが【蛇足】である。

時折、この【蛇足】について【あっても役に立たないもの】と勘違いされた説明がされているが、 それを差す言葉は夏炉冬扇(夏の暖房器具と冬の扇)であって、 こちらの意味は前述のように 【本来付け足さなくてもよいものを付け足した結果、台無しにしてしまう】である。
これは古代中国で、酒をかけたお絵かきバトル、お題は【蛇】!
が開催された際に、一人の男Aがあっさり蛇を描き上げ、賞品の酒を手にしながら、
「俺には蛇に足を付け足す余裕すらある!」
と自らが描いた蛇に足を付け足したところ、その時点で蛇を描き上げた男BがAから酒を奪い、
「蛇に足はない。お前が描いたのは蛇ではないから、酒は俺のもん」
と本来飲める酒をとられてしまった、的なそんな感じのお話に由来する。
(閑話休題)
しかし、時代の移り変わりやハードの移り変わりと共に、ボイスはもはや必然となり、 RPG等は一時期ムービーシーンがあるだけでもてはやされていたのに、 今となってはない方が珍しくなってしまった。
特に原作アニメ等があるスパロボのようなゲームの場合、 原作ボイスやムービーがない状態は【画龍点睛を欠く】に等しい扱いになっているのである。
 【画龍点睛を欠く】とは・・・龍の絵に目を付け足したところ、本物の龍となって天に昇っていったことから、 肝心のものが欠けている状態を指す故事成語である。
(閑話休題)
【蛇足】と【画龍点睛】
・・・どちらも対象に何かを付け足した結果起こったことを指す言葉であるが、 その結果は全くの真逆である。
つまり対象にとって、付け足そうとするものが本当に必要であるかないかを見極めることが必要であると、 この二つの言葉は伝えようとしているのかもしれない。
そして、一番不幸であるのは、製作する側が画龍点睛であると思い、追加したものこそが 受け手にとって蛇足であった場合である。
・・・昨今の巨匠アニメの芸能人声優起用とか。

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