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“交われば朱薄くなる?” | 08.3/9 | メニューへ | |||
気付いたら季節は巡り、冬の気配は薄れ、春の息吹を感じられる気がするこの頃、皆様はいかがお過ごしだろうか? 春といえば、新生活。 ♪友達百人できるかな〜はおいておいて、 新たに出会った人々に感化されて、自分の中の別の側面が見えてくることもあるだろう。 まぁ、具体的に言えば・・・少しアニメを見る程度だった人がサークル(アニメ系とは関係なくても)に入った結果、 DVDを買い漁るようになっているみたいな感じだろうか。 そして新生活に慣れ始めた頃、ふと街で会った同級生にこう言われるわけだ。 『なんか変わったね』と。 チガウヨ、実体験ジャナイヨ?(金は使わないものの感化される以前にアレな人なので、私は) ともかく、こういう状況を指すものとして 『朱に交われば 赤くなる』 という言い回しがある。 つまり先の例のように周囲(朱)に染まって赤くなることを指しているのだが、ここで二つほど疑問がある。 1.言及されていないが、赤くなった側Aは何色だったのだろうか? 2.赤く染めた朱の側Bは相手を染めた結果、朱でなくなったりしないのだろうか? なぜそう思うのかというと、Aが生れ落ちてすぐの存在でもない限り、無色透明であるわけはなく、 またBが一方的にAを赤に染めることが出来るのならば、それは対等な人間関係とは思えないからである。 また喩えとしてもAB共に塗料なのか、Aがキャンバス、Bが塗料なのか、 そもそも人間って周囲の人間の影響でポンポンと色が変わったりするものだろうか? 往々にして人同士の付き合いって仮面(ペルソナ)越しに行われるから、 そこまでダイレクトに周囲の色の影響を受けないのじゃないだろうか?と無駄につらつらと考えていて、 ふと説明できそうな現象に思い当たった。 それは『浸透圧』である。 何ソレ?美味しいの?と思った方は素直にググったりすると幸せになれます、多分。 簡単に説明すれば、半透膜・・・凄まじく適当に説明すれば、ある分子(ここでは水)は通すがそれ以上のサイズの分子は通さない膜で 仕切られた溶液同士の間に濃度差があると、濃度が低い方から高い方へ溶媒(ここでは水)が移動するように働く圧力である。 半透膜で仕切られた溶液の濃度を中間にしようとする機能と考えれば、どちらからどちらに溶媒が流れるかは理解しやすいかもしれない。 さて、この『浸透圧』を踏まえた上で 『朱に交われば 赤くなる』という現象を考えてみよう。 まずAとBは互いに仮面(ペルソナ)という半透膜で仕切られた存在で、その半透膜内には色の溶け込んだ溶液が詰まっている、と仮定する。 このABが交わった時に浸透圧が働き、Aから朱=溶液の濃度が高いBに水が流入する。 その結果、Aの濃度が相対的に高くなり、それ以前よりも溶液の色が濃く映る=赤くなるわけだ。 2の疑問についての回答は『Aからの水の流入を受けて薄くなる』 つまりAは周囲の影響で別の色だったものがいきなり赤くなったわけではなく、 元々赤くなる素養を持っていたが、いわゆる『薄かった』だけで、 『濃い』周囲に囲まれた結果、その赤色が如実に発現されたに過ぎないのではないか?ということだ。 そして、BはAと触れ合った結果、一時的に『薄く』なる。 この時、Bは元の濃さを取り戻すために、元のB以上に『濃い』存在に触れようとするか、 そのままAやAより薄い存在に触れ続けることで周囲の濃度を高くする代わりに B自体は次第に『薄く』なっていくか、ということなのだろうか。 つまりその、なんだ。 サブカル的な知識量を示す『濃い』『薄い』ってこういうことだったんデスネ? そして、『薄い』人間がいきなりかなり『濃い』場所に行った時に感じるプレッシャー(ガソダム的な意味で)は そのまま濃度差の激しさによる浸透圧の高さだったのデスネ? 教訓:『濃い』温泉に入る際は、かけ湯を忘れずに |
“クラスターカルチャー” | 08.6.8 | ネタ一覧へ |
やあ、いつものように揚げ足取りタイムの時間だよ? 新聞で某禁止条約に関する記事を読んでいたら、 『無差別に市民を殺傷するクラスター爆弾〜』 という記述に喉に小骨が刺さったかのような違和感を覚えた。 その違和感は簡単に言ってしまえば、『無差別に市民を殺傷する』ことがクラスター爆弾の問題なのだろうか? つまり『無差別に市民を殺傷しない』爆弾ってあるのかよ?ということであった。 規模の大小に関わらず爆弾が投下されれば、範囲内にいた兵士も市民もオケラだってアメンボだって死ぬのである。 それを『無差別に市民を殺傷しない』なんて虫が良すぎるというものではないだろうか? そして、もしそんな爆弾があったとしたら、 それは暗に『選択的に兵士を殺傷する』兵器であれば 禁止条約を結ぶほどのものではない、と言っているのと同義ではなかろうか? そもそもクラスター爆弾ってなんぞや?という人は、ググr ・・・簡単に説明すれば、ビッグブラストディバイダーの爆弾ヴァージョンのような、ってかえって分かりにくいかもしれないが 爆弾の中に子爆弾がぎっしり詰まって満足すること間違いなし!な爆弾である。 この構成が従来の爆弾の点破壊に対して面破壊を可能とし、また同時に無数の不発弾を生む可能性を持つために 今回の禁止条約に繋がっている(大人の事情も多々含まれてそうだが)わけで。 つまりクラスター爆弾は『無差別に市民を殺傷する』ことではなく 『時と場所を隔てても市民を殺傷する可能性が高い』ことが 『非人道』的として問題になっているわけである。 ん?あれ? クラスター爆弾が『非人道』的な兵器だから問題だということは、 『人道』的な兵器が存在するということなのだろうか? クラスター爆弾の『非人道』性が『時と場所を隔てても市民を殺傷する可能性が高い』であるとすれば 『戦時下において兵士を殺傷する』兵器は『人道』的な兵器であるということなのだろうか? そもそも『兵器』自体が『人道』的なものなのか? というわけで『兵器』の定義をWikiで調べてみた。 【兵器(へいき)とは、戦争において使用する全ての車両、航空機、船舶、設備等の事を言う。 (中略)通常、目標を殺傷、破壊することが目的とされる。】 ・・・これを『人道』的というのは『人道』的に無理があると思う、戦時下が特殊状況としても。 というかこの『人道的な兵器の有無』というネタ自体、 大量にばら撒かれて結論が出ないまま不発弾になりつつあるので、 ここではあえて現存する『人道的な兵器』とはなんぞや?ということを勝手に考えて生きたい所存。 ちなみにこの場合の『兵器』は先の定義のように目標を殺傷、破壊するのではなく、別の手段で『無力化』するものとする。 『無力化』というと暴徒鎮圧弾やスタングレネードのような目標を行動不能にするものを思い浮かべるかもしれないが、 目標の『敵意を喪失させ、あわよくば融和させる』という意味で考えるとどうだろう? 戦後、進駐軍が行ったいわゆる『ギブ・ミー・チョコレート』のようなものが浮かばないだろうか? ジープで街を走り、道往く子供達にチョコレートやチューイングガムを投下し、 アメリカナイズする懐柔『兵器』。 ただこのような懐柔『兵器』は一度に効果を発揮できる時・対象がピンポイントであるため、 イマイチ『兵器』としては効率が悪い。 その上、戦時下においては投下自体に危険が伴う上にかえって反発を招き、逆効果になってしまう恐れもある。 ということは、『人道的な兵器』に求められているのは 安全な箇所から投下でき、広範囲かつ無差別に、しかも時と場所を隔てて影響を及ぼせること・・・そう、クラスター爆弾のような。 はい、ここまででオチが読めた人、挙手! そうなんだ、『ヤック・デカルチャー!』オチなんだ、すまない。 解説すると、マク○スのゼントラーディ人は戦闘に特化されて改造された種族であるため、 文化を喪失しており、地球人の美術・歌などの文化に触れたことで 当初『ヤック・デカルチャー!(何と恐ろしい!)』と言いながらも『我々にも文化が甦るのか』と融和したことを・・・ ・・・今気付いたけど、このプロットって解釈によってはかなり危険な気がする、二次大戦時に実際に行われた政策的に。 念のため、注釈しておくとあくまでこのネタでの『ヤック・デカルチャー!』は『文化的侵略』じゃなくて『文化的融和』。 閑話休題 この条件に当てはまる『人道的な兵器』を考えた時、 私は子供の頃よく見ていた「猫と鼠が仲良くケンカするアニメ」を思い出した。 私はあのアニメで「アメリカ人の生活・文化」とのファーストコンタクトを果たしたといっても過言ではない。 そして、あのアニメは(大人の都合的に放映できる話が減ってはいるものの)現在も色々な形で視聴される機会を得ている。 または「当時は聞いているだけで不良と言われたバンドの曲」等も音楽の教科書に載ったりと一般に流布され、 当たり前のように流れている。 つまりこれらは、 安全な箇所から投下でき ≒ 製作された場所と視聴できる場所が異なる 広範囲かつ無差別に ≒ メディアを通して浸透させられる しかも時と場所を隔てて影響を及ぼせること ≒ 現在も様々な地域で視聴可能かつ対象を融和させること というクラスター爆弾的条件を満たしているといえる。 つまり理想的な『人道的な兵器』とは、映画・美術・歌、そしてサブカルチャーではないだろうか? などと某電子の歌姫達の様々な業界・年代層への拡散・浸透っぷりから 『歌』の持つクラスター爆弾的威力を目の当たりにして思ったり思わなかったり。 だって不発弾的オ○サンホイホイ曲が結構埋もれてるし。 |
“条件反射とマンネリと” | 08.7/28 | ネタ一覧へ |
うめぼし この文字列を見た時、アナタは口の中に唾液がじわじわと広がっていくのを感じないだろうか? これこそが、太古の時代よりDNAの塩基配列に刻み込まれた“呪い”に近しい存在・・・ とかではなく、いわゆる『条件反射』である。 ちなみに『条件反射』というと、たまに勘違いされているが、コショウが鼻に入って 『呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン☆』 するのは生理的な反射であって『条件反射』ではない。 『条件反射』とはパブロフの犬で有名なように、 犬に餌をあげる前に必ずベルを鳴らしてから餌をあげていると、 やがてベルを鳴らすだけで犬がよだれをたらすようになるという、 『刷り込み』によって起こる反射運動のことである。 生理的な反射と『条件反射』の違いは先天的なものか後天的に獲得したものかの違いだろうか。 冒頭で紹介したうめぼしの話が『条件反射』なのは、そのためである。 え?『うめぼしの文字列を見ると唾液が出るのは人類全てが生まれ持ったものではないのか?』ですと!? 勿論そんなわけはなく、うめぼしを食べる→すっぱいを何度か経験した結果、 うめぼしを見るだけですっぱさを思い出し、唾液が出てくるようになり、 いずれはうめぼしの文字列だけでうめぼしを想起するようになり以下略 といった具合に、まさに『刷り込み』の結果、形成された反射運動なのである。 これの特筆すべき点は『うめぼし』という文字列のみでも『条件反射』を起こしてしまえるということであろうか? ここから、面白い考察ができそうである。 だが、どうも『うめぼし』というある種、日本人にとって共通的な条件反射を例にしているから、 生理的な反射と混同しそうな気がしないでもない。 ・・・というわけで、私自身の特殊な条件反射で説明してみようと思う。 私は16歳や 158cmという表記を見ると、グッとくる。 ・・・勿論、性別的にヘテロなもの&リアルとは無縁の場合のみ限定だが。 なぜ、そうなったのかを自己分析すると、昔から漫画・アニメ・ゲームなどのキャラに多く見られる設定のため、 (キャラA):16歳→絵orキャラ的に気に入る→ (キャラB):16歳→気に入りそうな予感→ 16歳→気になる という『刷り込み』の結果であろうと推測される。多分、そうだと信じたい。 この例なら共感できる人はほぼ皆無であろうから、『刷り込み』による文字列のもたらす反射が実際にあること、 そしてそれが後天的に獲得される個別のものであることが何となく伝わるとイイナ。 さて、この『刷り込み』による文字列からの『条件反射』。 先の私の特殊例のようなことが案外当たり前に行われていると言ったら、驚くだろうか? それはテレビ欄のドラマの出演者や主題歌の歌手名、ゲーム&アニメ雑誌などのキャラデザ、声優名などにおいてである。 自分の好きな俳優(声優、歌手等)の名前の文字列をテレビ欄などで見かけると、それだけで興味が湧かないだろうか? また特定のイメージを持っている俳優(声優、歌手等)の文字列を見るだけで、 その役、しいては作品までその特定なイメージを想起してしまわないだろうか? 具体的でアレな例でいくと、 ツンデレなキャラを演じていた声優がAだと知る→(Aにはまだ特定のイメージがない) 別なツンデレなキャラもAが演じていた→(Aはツンデレが多い) 雑誌で見かけた外見的にツンデレなキャラの配役がA→(このキャラはツンデレだろうか) キャラ名のみ(声:A)→(Aが演じているのだから、このキャラはツンデレに違いない) という具合にAという文字列を見るだけで『ツンデレ!』と想起してしまうという風に。 つまり、特定のイメージを『刷り込み』できた俳優(声優、歌手等)は勿論、実力もあるのだろうが、 文字列という側面でも選択されやすくなるのではないだろうか?ということだ。 そう考えると、一度特定のイメージで売れた同じ俳優(声優、歌手等)の文字列ばかりを 紙面等で見かけるのも無理からぬことなのかもしれない。 だがその結果、逆にマイナスイメージを『刷り込まれた』俳優(声優、歌手等)の文字列が避けられる、 また特筆すべきイメージを『刷り込めない』俳優(声優、歌手等)の文字列が選択されにくい傾向にあるのだとしたら、 我々は無意識の内に『自分が気に入るかもしれない』ものも見逃しているのではないだろうか? などと、最近色々なところで見かける『タグ』を見ていて思ったり思わなかったり。 |
“逃した魚は酸っぱいブドウ” | 08.9/14 | ネタ一覧へ |
『夢ってのは呪いと同じなんだよ。 呪いを解くには夢を叶えなければならない。 でも、途中で挫折した人間はずっと呪われたままなんだよ。』 これは555の海堂直也、 ギタリストとしての夢を、恩師の悪意によって閉ざされた男の名台詞の引用である。 これは『夢』に限らず、手に入れようと望んだもの全般において当てはまるのではなかろうか? その証拠に、この『呪い』を示すことわざがある。 それは 『逃した魚は大きい』である。 あと少しのところで手に入れられなかったものが実像よりも価値のあるものに捉えられてしまうという このことわざが、何故『呪い』なのか? それは、ひとえに 『対象を過大に評価し、手に入れない限りは正当に評価する機会すら与えられない』 状態になるからである。 魚では実感が湧きにくいと思われるので、以下のような例え話を用いてみよう。 欲しかったゲームの発売日。 何軒ゲーム屋を回ってもそのゲームが売り切れて手に入らなかったとする。 この時、手に入れられなかったゲームが、 買おうと考えた時よりも物凄い面白いものように思えてしまう、そんな経験はないだろうか? そして、その後あっさり手に入ると案外この時の感覚は覚えていない、そういうものではないだろうか? まさに『呪いを解くには夢を叶えなければならない。』である。 しかし、その後もなかなか手に入れられなかった場合、その想いは日に日に募り、手に入れるまで増幅され続ける。 そして、日に日に募る想いが臨界点に達した時、もう一つの『呪い』が発動する場合がある。 そのもう一つの呪いをことわざで示すならば、 童話が元になった『酸っぱいブドウ』である。 狐がどんなに頑張っても取れなかった木の枝の美味しそうなブドウに対して、悔しさのあまり 「どうせあのブドウは酸っぱくてマズイに決まってるさ。誰が食べるか、こんなもの!」 と捨て台詞を吐いて諦めるという童話。 先のゲームの例えでいえば、手に入れられなかったゲームを 『どうせデバック不足でバグ一杯で、一週間後には半値で売られているに違いない』と決め付けて購入を諦めることであろうか。 この場合の『呪い』は『対象への評価が逆転し、手に入れて正当に評価する機会を自ら失う』状態になることである。 つまり途中で諦めたとしても、諦め方によっては『呪い』は別の形で存在したままになる。 まさに『でも、途中で挫折した人間はずっと呪われたまま』である。 だが、モウ ガマン デキナイ! と手に入れた後に、初めて気付くこともある。 『手に入れるまでが、一番面白いプレイ時間だったのだ』と。 この『呪い』はその悲劇から事前に心を守っているといえるのかもしれない。 基本的にはどちらの『呪い』も“トリニティ・バランス”の心の安定を保つための機能が関係している。 『逃した魚は大きい』 は手に入れられなかった悔しさから心を守るために、 手に入れようとした労力に比例した価値を対象に見出そうとして起こる心理的補正。 ゆえに労力を尽くした期間が長ければ長いほど、その価値も過大になっていくのだろう。 『酸っぱいブドウ』 は手に入れられなかった悔しさから心を守るために、 対象が自分にとって価値のない、場合によっては害になるものであったと見なす心理的補正。 労力を尽くした期間を無駄にしたことよりも、それ以上労力を尽くさずに済んだこと、 または手に入れた際の仮想心理ダメージ回避に重きをおいたものといえるかもしれない。 しかし、望んだものを手に入れられなかったという点では同じにも関わらず、 どうしてこうも両極端な評価に陥ってしまうのか。 そんなもの、分かるわけがない。 昨今の報道にありがちな、一要因で人間の思考パターンが形成されることはなく、 様々な経験、環境要因が積み重なった結果、『呪い』にかかるのであろうから。 ただ『逃した魚は大きい』的『呪い』にかかりやすい人は 手に入れること自体が目的となった収集家になりやすく、 『酸っぱいブドウ』的『呪い』にかかりやすい人は 手に入れずに価値を断じてしまう批評家になりやすい、 経験則からそんな傾向が導き出せる気がする。 もし『呪い』にかかるならば、 アナタならどちらがまだ『幸せ』だとオモイマスカ? |
“キカイ ノ コエ” | 08.11/1 | ネタ一覧へ |
『おはようございます あたたかいおのみものなど いかがですか? きょうも いちにち がんばってください』 これは朝、備え付けの自動販売機でジュースを買った時に流れた女性の声である。今回はそんな話。 自動販売機に監視カメラが設置されたりもする世の中において、今更何を言っているのかと思うかもしれないが、 別に自動販売機の進化についての話ではないのでおいておいて。 機械が歌いだし、週間オリコンチャート一桁にランクインするこの時代、 音節ごとの合成音声ではなく、文節ごとの合成音声を用いた機器は既に街中に溢れている。 例えば、トラックの「くるま が でます ごちゅうい ください」 「ひだり に まがります ごちゅうい ください」 ATMの「つうちょう または かーどを いれて ください」 「しへい を おとり ください」 一度は聴いた事があるのではないだろうか?というレベルを通り越して、既に当たり前のものになっているのではないだろうか? これは直接的なコミュニケーション手段をとらなくなったといわれがちな現代人でも、 機械から流れる際に求めているのは、無味乾燥とした警報音ではなく、人の声であることの証左といって過言ではないとかうんたらかんたら。 だが、これらの合成音声を思い返してみた時、 何か不自然なことに気付かないだろうか? ・・・なに?気付かない? 仕方がない、私がそれに気付いた経緯でも書こう。 信号灯のカタログを読んでいて、シグナルホーン (「3 ばん そうこ に ぶひん を とりに いって ください」のように指定した言葉を設定できる) について『合成音声機器』と書かれていたのをみて、 「これは合成音声じゃなくて音声合成じゃね?」 とかどうでもいいことを思いながら、ふと注記を見てみると・・・ 『設定されている音声は女性の声のみです』 『男性の声は別料金』 ・・・つまり、そういうことだ。 世に溢れている機械から流れる合成音声は、ほとんど全てが『女性声』だったのである! Ω ΩΩ<ナンダッテー これはなぜか? これを読み解くヒントは、シグナルホーンが主に工場の機器に設置されていることだと思われる。 つまり比率的に女性の少ない場所において、 『機械にまでヤローの声で話しかけて欲しくない!!!』 と考える人が多いからなのではないだろうか? またトラックにしても、暗い夜道で曲がり角の向こうから、男性の声で 『ひだりに〜』と聴こえてきたら、 ビクビクオドオドしてしまう気がする。 つまり機械から流れる合成音声としては、女性の声に比して男性の声は弊害が大きいがゆえに世に溢れづらいのだろう。 だが、ふと思った。 男性某カ□イドの躍進、執事カフェなどの女性向けサービスの増加を見るに、 工場などでも昔より女性比率が増している現在、合成音声機器の男性声のニーズが増えることもあるのではないだろうか? 可愛く媚媚な女性声よりも渋く甘い男性声で優しく囁いてもらった方が癒される!という人の比率が増えれば、 もしかしたらそんな時代がくるのかもしれない。 ・・・ってネタを考えていたら、玩具屋でイケメンボイスの貯金箱なるものを見つけてしまって、 時代は私が思っているよりも加速しているのかもしれないと思ったり思わなかったり。 |
“転籍 ファンを生ぜず?” | (08.12/31) | ネタ一覧へ |
これを書いてるのは本当は09年の元旦ですが、そっとしておいて。 ♪さざれ石の巌となりて、苔のむすまで これは某国家(♪消える飛行機雲〜の方ではなく)のワンフレーズだが、この歌詞の意味を正しく理解しているだろうか? 実は、この歌詞は小さな原核生物がやがて寄り集まり、真核生物となり、それらが寄り集まって高等生物となったという生物進化の流れを詠んだ歌だったのだ!! 細胞内共生説が唱えられるより100年も前に、この内容を盛り込めたということは、当時の関係者にアカシックレコードを解読できた人間がいたことを証明していることに他ならない! Ω ΩΩ<ナンダッテー!? 『だいたいあってる』部分があるのが微妙にやらしいな。 要するに『石の上にも三年』と同じことを言っているのだ。 つまり『石の上に三年間いても何も意味がないから、とにかく動け!もっと動けよ!』ということだ。 ・・・いつまでボケ続けるんだ、こん畜生と思ったアナタ! これと近い解釈を中学生の時、国語教師が言っていて腰が抜けそうになった・・・ というのはおいておいて、実際こういう解釈もあるのを知っているだろうか? 『転石 苔を生ぜず』ということわざがまさにそれで、 『転がる石には苔も生えない。つまりいつまでも腐らずにすむ』という意味なのだ! 自分の意志で色々な球団に転籍する野球選手がよく似たようなことを言っているのを聞いたことがある人もいるかもしれない。 つまり同じ球団在籍時に発生するマンネリを避け、いつまでも新鮮な気持ちでプレーしたいがための転籍なのだろう。 さて、ここでおかしなことに気付いた人は、エスパー能力があったりなかったりするかもしれない。 要するに『最初の話と苔の意味、変わってね?』ということだ。 つまり最初の歌詞内では、『苔が生じる』=『箔がつく、定着する』というプラスのニュアンスなのに対し、 後のことわざでは、『苔が生じる』=『感覚が錆びる』というマイナスのニュアンスっぽくないか?と。 実はそのとおりなのである。 実はこの『転石 苔を生ぜず』。 英国と米国で解釈が異なるのだ。 英国式解釈は『自分の居場所をコロコロ変える人間は箔もつかない。だから一所でガンバレ』というもの。 これは、日本でもよく使われている解釈である。 対して米国式解釈は先の『動き続ける人間は時代に取り残されることはない。だから動け』である。 考えようによっては、この解釈が『割れ窓理論』発祥の米国式であることが面白い。 『割れ窓理論』とは、端折ると『NYで落書きなどの軽犯罪を取り締まることが、犯罪予備軍に衆人の目を意識させ、凶悪犯罪の発生率抑制につながる』とする理論である。 つまり『転がること』=『軽犯罪の取り締まり』によって、『苔』=『凶悪犯罪』の発生を防いだというわけである。 この理論をサイト運営に喩えるならば、掲示板等のスパムをこまめに消すことが、板の住民に管理人の目を意識させ、板の健全化につながる、みたいな感じだろう。 ついでに解釈自体をサイト運営に喩えるならば、 英国式解釈は『ジャンルやアドレス、ポリシーをころころ変えるサイトにはリピーターがつかない。だから初志貫徹しろ。』 米国式解釈は『頻繁にジャンル・アドレス変更をしているサイトは常に新鮮で、荒れない。だからマンネリ化するな』といったところだろうか。 つまり『苔』の解釈が英国式では『リピーター』、米国式では『スパム・嵐』 と変わっているわけである。 つまりどう転んでも転ばなくても、何らかの『苔』は生じるってことですな。 さて、貴方の運営方針は英国式?それとも米国式? |
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