-----------------------黒田の関連人物-----------------------
ここでは黒田に関係した人物について簡単な説明と黒田との関係を書きます。
(注)文章については、なるべく史観的に書くように努めているつもりです。
ですが、私の私見が結構入ってるのでこのページはかなり歪んでます☆
そして絵はもちろん妄想絵!写真?そんなものは知りませんよ(死)


追加人物 → 永山武四郎・黒木の顔絵を追加


NEXT 更新予定 → 明治天皇・西郷従道・大山巌・副島種臣・前原一誠 辺りを予定中☆
顔グラフィックも描け次第徐々に更新予定。

黒田清隆と近親者達
黒田清隆 黒田清行(父)と母
黒田たか(姉)
黒田清
(旧姓:中山 / 第一夫人)
黒田清隆 画像なし 黒田清
北海道大好き薩摩人。個人的には政治家としての能力よりも外交等の交渉能力の方が高いと思う。 実際に薩長同盟、榎本らの助命運動、樺太・千島交換条約に成功している。 大久保亡き後は薩摩閥の後継者となった。 が、中央にいるよりもずっと北海道や開拓使に関わっていたほうが黒田にとって幸せだったのかもしれない…。 清行は黒田の父、母の名は記録に残っていない。黒田の父母は共に早く亡くなっている。 たかは父母を早くに亡くした黒田にとって唯一の肉親。黒田の晴着を縫ってあげるなど、親代わり的な存在だったらしい。 黒田はこの晴着を大切に持っていたという。 黒田の第一夫人。ケプロン曰く「美人だった」とのこと。しかし写真は残っておらず現在では確かめる術は無い。 黒田との間に二児をもうけたが二児とも夭折してしまう。明治11年没。死の真相には様々な憶測が飛んでいる。が、私は信じない!(笑)
黒田瀧
(旧姓:丸山 / 後妻)
黒田百子
(養女)
黒田梅子
(娘)
黒田瀧 黒田百子 画像なし
後妻。黒田との仲はあまりよくなかったらしい。黒田が死去した後養女・百子によって離縁させられている。 その後の消息は不明。 清夫人が二児を夭折したため清夫人の実妹である百子が黒田家の養子に迎えられた。 明治20年、二十歳の時に当時四十四歳の黒木為驍フ後妻となった。 黒木に嫁いだ後も黒田は百子の家庭に対して節介な手紙を出したりしている。 黒田の娘。後に榎本武揚の息子武憲と結婚している。
黒田竹子
(娘)
伊地知明
(孫)
黒清
(北海道の妾)
画像なし 画像なし 黒清
黒田の娘。伊地知貞一と結婚している。 黒田の孫にして数少ない黒田研究者のひとりでもある。母は黒田竹子。 北海道の遊郭で芸妓をしている黒田の妾的存在。黒清は源氏名で本名はきよ。 足が不自由だったがそんな彼女に黒田は優しかったという。 写真も残っている。かなりの美人。晩年彼女は「閣下さえいらっしゃったら、 世の中もっとましになるのに」と口癖のように言っていたらしい。黒田を本気で愛した女性。


薩摩藩
西郷隆盛 大久保利通 五代友厚
西郷隆盛 大久保利通 五代友厚
言わずと知れた薩摩の有名人っていうか薩摩のアイドル。そして維新の三傑。黒田は「西郷を父、大久保を兄」として慕っていた。 しかし外遊をした黒田は反征韓論派であり、 大久保側についた。結局西南戦争では敵として戦わねばならなかった。 維新の三傑。幕末よりも明治で力を発揮した人。大久保は薩摩閥の後継者として黒田を開拓使に当てた。 また黒田の役職や家庭事情など様々な事にも気を使っていたらしい。 黒田と松本十郎、岩村通俊らの仲も大久保の仲介があり回復した。大久保暗殺は黒田には相当堪えた模様。 薩摩人だけど大阪で成功した実業家。「東の渋沢、西の五代」ともいわれる。 明治14年の開拓使払い下げ事件の関係者。 黒田は心血を注いだ開拓使事業を同郷のよしみでもある五代に譲りたかったのか…?
川路利良 松方正義 黒木為
画像なし 画像なし 黒木為
警察の生みの親。黒田の夫人清の死の真相を調べる為に夫人の墓を暴いたとか暴かなかったとか…。一般的には暴いたとされているが 実は資料等の信憑性が薄く、その真相は謎のまま。 黒田の後の薩摩閥の後継者。その割に「昨日は酒に酔って色々してごめんなさい」という黒田の個人的な内容の手紙を伊藤に見せたりして、 黒田から伊藤へアッサリと乗り換える。切り替えの早い男。「薩摩人らしくない」と言われるが私的にどの辺がそうなのかよくわからない…。 陸軍大将。日露戦争では第一軍司令官として出征した。明治20年、黒田の養女・百子を後妻として向かえた。 百子曰く「普段は無口だった」らしい。そして戦争してるのに戦場で寝れる。
他藩・政界関係者
木戸孝允 伊藤博文 山県有朋
木戸孝允 伊藤博文 画像なし
維新の三傑。でも明治になると薩摩人に押され気味…。 しかし酔った黒田が木戸に絡んだところ、投げ飛ばされたというトンデモ逸話もある(笑) 黒田は西南戦争参軍を辞任した後、京都で病床についていた木戸を見舞い 「八代口戦記」と「戦闘図」を贈ったことが木戸孝允日記に書かれている。 明治憲法も作った初代内閣総理大臣。伊藤は長州閥の代表として薩摩閥代表の黒田と対峙した。 しかし同じ政治家として政治的手腕は伊藤の方が格段に上であったため黒田はずっと伊藤に勝てなかった。 松方に見せられた黒田の手紙をしっかりとメモってるあたりに腹黒さがあるような気がする…。 政界から陸軍と権力を手にしまくった男。 黒田とは薩長同盟の時に知り合う。戊辰戦争以前は(おそらく表面上だけ)仲が良かった。 しかし北越征討で互いに作戦計画の対立があり途端に不仲となった。だがもし黒田が開拓使ではなく陸軍軍人として兵部省に出仕していても、 おそらく山県には勝てなかったように思う。
井上馨 大隈重信
井上馨 大隈重信
鹿鳴館外交で有名(?)お金に関連すると色々と良くない話が多い長州人(笑) 因みに伊藤とは幕末時代から晩年までずっと友達。 黒田が酒に酔って井上不在時に邸宅に乗り込んだと聞くや、自分も仕返しに黒田邸に乗り込んだという 逸話が残っている。黒田との仲(政界面)はあまり良くなかったような感じ…。 佐賀人で早稲田の父。黒田が首相に就任したときには外相だった。 黒田と共に不平等条約改正に力を入れていたが、あまりに改正を急ぎすぎたため爆弾で暗殺されかけた。 片足を切断したが命は取り留める。黒田は鶏卵を持って大隈を見舞っている。
開拓使関係者
松本十郎 岩村通俊 永山武四郎
松本十郎 岩村通俊 永山武四郎
庄内藩士。戊辰戦争では賊軍側として官軍と戦ったが明治に入り開拓使に出仕した。 いつもアイヌのアツシを着ていたため厚司判官というあだ名で人々から親しまれていた。 黒田の信頼も厚かったが明治9年アイヌの移住問題で黒田と意見が対立。大判官を辞して庄内に帰り、 その後は官職の誘いがあっても絶対に就こうとせず一生農夫として過した。官僚の鏡のような人。 土佐人。弟は林有造と岩村高俊。黒田よりも早く北海道開拓に関与していたが黒田と意見が対立し 開拓使を去る。 その後は西南戦争後の鹿児島県令を務め開拓使が廃止となった後の初代北海道長官となる。 黒田とは大久保の仲介で仲直りをし、以後鳥好き仲間として仲が良かったらしい(笑) 因みに沖縄県令も務めていたりする。南と北を極めた男。 薩摩人で陸軍中将。会津戦争で武功を上げ取り立てられた叩き上げの軍人。そして屯田兵を育て上げた「屯田兵の父」。 永山盛弘とは同じ苗字だが血縁関係は無い。また、岩村の後の二代目北海道長官も務めその生涯を北海道開拓と屯田兵に捧げた。 だが永山の作り上げた屯田兵条例、その他屯田兵に関連する諸令は彼の死後間もなくすべて廃止されてしまった。
鈴木大亮 榎本武揚 大鳥圭介
鈴木大亮 画像なし 画像なし
仙台人。江川塾で黒田と知り合う。黒田の腰巾着などと言われていた。 維新後は開拓使に出仕。 また秋田県・石川県知事や逓信次官等にも就いている。 明治18年黒田のロシア旅行にも会計役として付き合った。 その性格は松本十郎とは正反対だったらしい。 つまり真面目じゃないっていうこと…。 箱館戦争では新政府軍と箱館で戦ったが、降伏。その後黒田の助命活動もあり釈放後は開拓使に出仕した。 黒田が死去する数年前に「貴君から受けた恩義を子孫に伝えたい」として、息子武憲と黒田の娘梅子の婚約を願い出た。 江川塾では黒田の講師として、箱館戦争では官軍と賊軍、釈放後は開拓使に出仕して上司(黒田) と部下(大鳥)となる。 黒田との関係はなかなか奇妙だと思う(笑)
ホーレス・ケプロン ウィリアム・スミス・クラーク
画像なし 画像なし
アメリカ人。明治4年黒田は米大統領グラントに会い、現職大臣に相当する農務局長であったケプロンを招聘する事に成功した。 来日したケプロンは北海道開拓に着手するも榎本らと意見の対立もあった。 札幌農学校で初代教頭を務めたお雇外国人。「Boys, Be Ambitious!(少年よ大志を抱け)」で有名だが、 何故か開拓使や長官の黒田よりも世間に名前が知れ渡っているから不思議。

まだまだ人数増やしていこうと思います。