名整会誌 佐藤公治さとうこうじ 昭和58年卒
1991年 4月28日20時55分、ヨットCSK Bengal 2は、大阪北港ヨットハーバーに無事フィニッシュしました。オーストラリアのメルボルンを 3月24日にスタートしてから大阪までの5500マイル(約 10200Km)を35日で完走したのです。成績は世界10カ国、43艇中12位でした。家族、友人、レース関係者など多くの人が待っていてくれました。「あぁ、やっと着いた。すべてが終わった。」桟橋から陸へ足を踏み入れたとたん、皆の顔を見ると涙があふれました。「みなさん、ありがとう。お世話になりました。」と繰り返し言う声が詰まります。花束をもらい、完走メダルが授与されました。カメラのフラッシュが飛び交います。思い出に残る最高の夜でした。
【メル阪に出ないか】
この「YAMAHA OSAKA CUPメルボルン/大阪ダブルハンドヨットレース1991」は、オーストラリアから日本までをヨットで競うレースです。1987年に大阪港開港120 年記念行事として海洋スポーツの振興と国際親善を目的に開催され、今回がその第2回目です。南半球のメルボルンをスタートする3月は秋、吠える40度線と呼ばれるバス海峡を抜け、オーストラリア東岸の海流を避け、大小様々な島が浮かぶ南太平洋を通過するのは夏、赤道直下の無風帯、北半球では世界でも有数の気象変化の激しい日本近海は春と3つのシーズンを乗り越えます。そのため艇体、乗員にはいくつかの試練が課せられます。またダブルハンドつまり2人でヨットを操るのです。
その一年前、「メルボルン大阪に出ないか」と言われたときは迷いました。当然危険が伴います。家族の反対、仕事のこと、予算のこと、いろいろな問題がありました。それにまず太平洋を渡るなんて、堀江さんほか冒険家のする事だと思っていました。
ヨットにはじめて出会ったのは中学の時。父が17フィートの小型ヨットを買い、それに乗ったのがはじまりです。徳島大学に入りヨット部に入部、6年間ヨットに明け暮れました。卒業後、研修先で知り合った邨瀬氏のヨットHORIZON グループに参加。1987年にHORIZON は鳥羽パールレースで優勝してしまいました。「次は海外レースだ!」などと冗談を言っていたところ、今回の太平洋縦断ヨットレースに参加するヨットが借りれることになりました。そして邨瀬氏とこのチャレンジを進めることになったのです。自己への挑戦のはじまりです。
今回使用したヨットは全長53フィート(16m )、マスト長20mで、1986年大橋氏のデザインでチタで作られたものです。そして前回のメルボルン大阪レースで、丹羽夫妻が乗られ4位と実績のある船でした。
【いよいよ回航出発】
まずヨットをオーストラリアまで持って行かなければなりません。「回航は下見、帰り道は早い。」という前回レース出場の丹羽氏よりのアドバイスはそのとおりでした。回航は安全を第一に、5人で行いました。
1990年12月 3日、愛知県碧南新川港を多くの仲間に見送られ出港。冬の太平洋は北風が強く寒い毎日でした。この近海で昨年の同時期、東京グアムレースで2艇のヨットが遭難したのは、今ではひと事とは思えません。父島で2泊し、グアムへ12月13日に着きました。
船で行った初めての外国グアムの入国管理からはじまり、世界からクルージングに来ている人との出会いは、英語をはじめいろいろな事の自信をあたえてくれました。「うみはひろいなおおきいな、うみにおふねをうかばせて、いってみたいなよそのくに」と歌にもあるようにこれは、ヨットマンの夢です。また幕末の坂本竜馬になった気分でした。
【台風に遭遇】
いちばん大変だったのはグアムで遭遇した時期はずれの台風29号です。920mbでグアムの南東をかすめました。最大風速140 ノット(約70m/s)は、もう正気の沙汰ではありませんでした。Bengal 2は喫水が深くて港の奥の台風シェルターへ行けず7つのもやい(アンカーロープ)を取り台風の通過を待ちました。コンクリートのアンカーからも取ってありましたがなんとそのコンクリートが動きました。夜12時すぎ3本のもやいが切れ、艇が風下を向いてしまいました。艇は後ろから大波を受け浸水し、あやうく近くのリーフに座礁するところでした。我々はこの船の中にいて死守しました。
【太平洋上で】
ヨットは24時間休み無しに帆走しています。海の朝日はすがすがしく、夕日は黄昏というにふさわしく美しく、また夜の満天の星や天の川は水平線から水平線へと続いていました。船からは星の写真が撮れませんので、これだけはお見せできないのが残念です。回航時は一路南へと天の川に近い南十字星を見ながら夜も進みました。昼間、イルカの群れが伴走してくれたり、遠くには鯨が潮を吹いているのも見えました。スコールがやってきたかと思えば、鏡のような水面になることもありました。小さなヨットが雄大な自然にもてあそばれていると言った感じです。
ヨットは今や電気製品です。帆走は風まかせですが、航海計器はすべて電気が源です。衛星から現在位置を割り出すGPS、レーダー、ロランC、無線機、気象FAX、自動操舵装置などはすべてエンジンが充電したバッテリーで稼働します。その機器を使いこなし航海して行きます。
赤道は昔から無風帯といって帆船が通過するのに苦労したところです。そんなとき古くから海の神様ネプチューンを崇拝した赤道祭が行われてきました。現在ではGPSで正確に赤道上がわかります。(その時よく海を見てみましたが、赤道といっても赤い線は引いてありませんでした!)
陸上とはアマチュア無線で連絡を取りました。また新しい試みとしてパケット通信というコンピュータ画像通信を利用して、世界ではじめてヨット上の風景を伝送することに成功しました。この様子は、陸上サポート局より電話のパソコンネットPCVANを通じ全国へ転送されました。
ヨット上の食事は贅沢はできませんが、ガスを積んでいるので米をはじめいろいろ料理しました。もちろん鰹、シーラなどが釣れましたし、缶詰などレトルト商品も使いました。常時は使えませんが荒天でないときは冷蔵庫も使いました。
【南の国ギゾ】
グアムを12月30日に出港し、1 月6 日に赤道通過。ヨットマンあこがれの南太平洋の島々の一つソロモン諸島のギゾ島に1 月12日に入港しました。赤道直下での国で、人々はカヌーで行き来し水上生活をしていました。日の出と共に起床し、午後は日陰でのんびりと暮らしていました。マラリア、A型肝炎が流行しており、それに恐れを感じながら島内を探検しました。1ソロモンドルは約60円で、50cmくらいのロブスターが2ドルでした。バナナ、椰子等の果物や野菜はセントの単位です。
【やっとオーストラリアに到着】
1 月16日ギゾを出港後、順調に南下し、1 月30日シドニーに着きました。ジャクソン湾に入り漁船に「Welcome to Sydney!」と声をかけられ、さらに湾の奥へ入っていくとおなじみのオペラハウスが見えて、「やっとオーストラリアに着いた。」という実感がわいてきました。
それも束の間、長旅でヨットはあちこちに不調が出て、船底などの整備とマストの新調を行いました。2 月21日シドニーを出港し、3日間で世界の難所の一つバス海峡を通過しメルボルンに着きました。先日女性単独世界一周に成功した今給黎さんもこのレースに参加していました。「まあ、こんなところまで来ているヨットマンは病気!まともな人はいませんょ!」と言われてしまいました。レースまでは、ヨットの整備、準備、他のcompetitorとパーティがありました。父子のチームあり、世界何周も回っている強者ありと外国のヨットマンの層の厚さを感じ、世界が広がりました。
【レーススタート】
いよいよ3 月23日スタートの日がやってきました。準備万端、スタートは多くの見送りや観戦のヨットでごった返し、空にはヘリコプターが飛び交ってます。海軍の大砲の音と共に大阪をめざしスタートしました。
レース5日目、エンジンがかからなくなりました。レース中は機走する(エンジンで走る)わけではありませんが、落水したり緊急時に機走できないのは困ります。また近ごろのヨットはハイテックな電装品を積み航海していきます。そのため充電は1日2回ほどエンジンを回しおこなっています。その大事なエンジンのスターターのギヤが割れてしまったのです。風向風速計以外はすべてオフとし、4時間おきに現在地を知るためGPSを立ちあげました。大きなバッテリが4本積んであったのでそれを少しづつ使いながらレースは続行することにしました。日本のサポート局との交信もこちらは「0816,15703, 異常無し」と緯度経度を棒読みするのみです。その後で皆が応援メッセージをかけてくれますが、バッテリ保護のため返事ができません。それでも知った声が聞こえてくるのは心強いものでした。無線は陸にいる人を安心させるものだと思いました。何か事故があってもこの広い太平洋で、無線が通じたからといってすぐ助けが来てくれるわけではありません。安全のため、ヨットにはアルゴスという小さな送信機が積んであり、コミティーはレース各艇の位置を把握はしていますが、所詮自分の身は自分で守らねばなりません。
レース13日目までは4位といい順位につけていました。何とかエンジンをかけようと試みましたが、大型ディーゼルはなんともなりませんでした。その間スピンネーカセールを強風でおろすときに破いてしまいました。ブーゲンビル島の東を風を求めてコースを選びましたが、そのまま赤道無風帯に入り込み、島の西を通ったレース艇に負けてしまいました。風が吹きすぎても、またなさすぎてもヨットは辛いものです。この辺でだいぶ疲れと焦りが高まっていました。今思うともう少し心の余裕が必要だったのだと反省しています。
暑い赤道を4 月16日レース23日目に通過しました。北半球へ帰ってくるとなんとなくわが家に近づいた気がしました。見慣れた北極星が見えます。レース28日目にオーストラリアから参加のヨットがグアム付近で何かに衝突し沈みました。幸い2人はライフラフトで退船し、USコーストガードに助けられました。我々も夜に、かじきか何か大きな魚にあたって船が止まったときはびっくりしました。翌朝デッキに血痕があって魚だったらしいことがわかりました。我々はそれまで航海灯もつけずに走っていましたが日本近海は大型船も多く危険なため、なけなしのバッテリで灯をつけることにしました。夜の海は不気味です。夜一人で舵を持っている時、陸上のことを考えたり、歌を唄ったりするのですが、恐怖と眠気の連続でした。 レース艇は軽いほど早いため、余分な物資は積んでいません。しかし懐中電灯の電池が無くなったり、何事も不足というのは不安を増します。
電気が使えれば自動操舵装置も使えるのですが、2人でずっと舵をひきました。昼も夜もなく3時間交代です。食事を作ったり、ナビゲーションをしたりもせねばなりません。舵が強くひっぱられ、セールチェンジ、20mmもあるシートを引くので手はぼんぼんに腫れこわばりました。長い航海の末、はじめて目に映った日本は徳島の山々でした。
【おわりに】
このチャレンジを通じ多くの人に出会い、助けていただきました。特に家族の協力があってこそ、こうして無事終わったものと考えています。6ヶ月のバカンス、約2万キロ以上の航海で貴重な経験をしました。これを今後に活かしていきたいと思います。ご迷惑をお掛けし、また応援していただいた皆さんに紙上をお借りして感謝いたします。