「チャレンジ、メルボルン大阪ダブルハンドヨットレース1991」回航記
CSK Bengal2 物語 佐藤公治さとうこうじ
1990年12月から1991年3月 愛知県新川港からオーストラリア/メルボルンまでの回航日記
目次
メルサカ0;CSK Bengal II物語お待ちどうさま
メルサカ1;メル阪に出ないか
メルサカ2;パールレース優勝しちゃった。
メルサカ3;そりゃあ家族は反対しますょ
メルサカ4;いよいよ回航出発だ。気合い入れて、
メルサカ5;小笠原へ寄ろう
メルサカ6;一路グアムへ、海で見る星
メルサカ7;アプラハーバーへ入港
メルサカ8;グアムで早速修理開始、あっ台風
メルサカ9;いよいよ台風29号が来ちゃった。
メルサカ10;船に浸水、もうだめかな
メルサカ11;とうとうグアムでクリスマス
メルサカ12;洋上のお正月
メルサカ13;えっ、デッキが浮いている。
メルサカ14;早く陸へ着きたい。もうすぐギゾだ。
メルサカ15;南の島 ギゾ島はソロモン諸島の一つ
メルサカ16;一路シドニーヘ、あれって鯨!
メルサカ17;コーラル海を南下
メルサカ18;南太平洋で思う、陸が近いのか海鳥が。
メルサカ19;やっとオーストラリアに着きました。
メルサカ20;シドニーでヨッティング
メルサカ21;これがバス海峡、
メルサカ22;サンドリンガムヨットクラブで、
メルサカ23;3/23第1レグ スタートッ!
メルサカ24;第2レグスタート、めざせ大阪
メルボルン大阪ヨットレース1991も5月24日全艇フィニッシュしました。すべてが終わりました。僕も社会復帰し、ふつうの人に戻りつつあります。毎日の通勤電車の雑踏、夜遅くまで仕事。太平洋もつらいですが、毎日の生活はまたまたえらいなぁ。忘れないうちに、あの夢とロマン、そしてフィニッシュしたときの感動を文字にしておこう。
今日から何回かにわたって自分の航海日記、ヨットのログ、無線のログ、ウォークマンに録音した記録、などをもとにドキュメントを書きたいと思います。ご期待ください。
海は広いな、大きいな、
海にお船を浮かばせて、行ってみたいなよその国、
今回のレースの約1年前、1990年2月16日、邨瀬氏より職場へ電話があった。「BengalUが借りれそうだから一度オーナーへ会いに行こう」と。早速その夜、妻に話した。「こんな話があるんだけど、どうしよう。」 しかし冗談にしか受け取っていなかったようだ。
2月18日、近くの喫茶店で邨瀬氏とメルボルン大阪1987の公式記録集などの資料を見ながら話をした。太平洋をわたるのは大変そうだ。危険もあるし、それに二人でできるだろうか。予算はどれくらいかかるだろう。わからないことだらけだ。
2月27日、オーナーに正式に借用を依頼し、その足で前回出場の丹羽さん宅へ押しかけた。味噌鍋を食べながら、前回のレースのお話を聞いた。「ぜひ回航しなさいょ。来た道を帰るのは早いと言うでしょう。自分の走ったことのある海というのは安心ですょ。」そして現在の船の状態、改造をした方がよい所を聞いた。話を聞けば聞くほどどうしても出たくなってきた。今思うと本当に次の人へ勧めたくなる気持ちがよくわかった。この2回目のレースに2度出場している人もある、それくらいヨットマンには魅力のあるレースだ。
Bengal2の船のポテンシャルは高い。1987年のレース後、放置してあったのでかなり手入れをしなければ行けない。エンジン、マスト、セール一式、航海計器、無線機、など交換修理が必要。しかしもう一度動かすことに丹羽さんは情熱を注いでくれることを約束してくれた。
こうして具体化、実現化に向けてこのチャレンジが動き出した。
今回のレースのパートナー邨瀬氏とは1983年、卒業後はじめて医者の研修をした病院で知り合った。それ以来、ヨットHORIZON5(横山31)に一緒に乗っていた。なんと1987年鳥羽パールレースで優勝した。ヨットレースはどんな草レースでも1位はなかなか難しい。しかし1位になると次は何をやろうかと泥沼へはいっていくものだ。そのとき「今度はメルボルン大阪かな、」と冗談で話していた。
4年前メルボルン大阪ヨットレースが開かれたのは知っていたし、大儀見さんが優勝、東海地方から丹羽さんご夫婦が出場され4位だったのも知っていた。鳥羽パールレースで優勝した次の年、五か所湾レースで志摩へ行ったときにBengalUをはじめてみた。長細い船だなぁと思った。これで太平洋を縦断か。大変だろうな。それはひと事の出来事と思っていた。まさか自分がこの船に乗って出るなんて。
僕にヨットを教えてくれたのは親父だった。中学の時、15フィートのミニクルーザーを買った。Chestnutという名が付いた。三河湾から出ることもなく三河湾内でも風が強くなると恐ろしくなりすぐ引き返してきた。徳島大学に入りヨット部へ入部した。スナイプにのり毎日がヨットだった。1980年にシーマンライクの瀬川さんに誘われヨットBigpalで沖縄レースに出た。一気に外洋へ出た。クルーザーを本格的に覚えたのはこのころからだ。翌年は小笠原レースにも参加した。最近、両レースに人気がないのは寂しい限りだ。
Bengal2を借りることになったが、とても二人の資金だけではやれない。そこでスポンサー探しをはじめた。前回の資料、売り込みを一冊のファイルにした。30部ほど作ったろうか、片っ端から配るがなかなか世間はきびしい。結局友人の紹介でCSKが部分的なスポンサーになってくれることになった。またJRCがナビゲーション機器を貸してくれることになった。持つべきは友だ。いろいろ世話になった。自分でも必死で仕事をし、実験研究もしていたのであまりの忙しさに死ぬ想いの夏だった。
ヨットの修理、改造はこの船の建造にあたった藤田さんが中心になってやってくれた。無線機などナビゲーション機器は自分でつけた。このときヨットの構造、配線もわかり後に修理するのに役立った。外洋へ出たら何でも自分でやらなくては行けない。最近のヨットは電化製品だ。電気の知識がどうしても必要となる。無線をはじめ電気の好きな僕はその点では自信があった。もともと丹羽さんのドリームボートとでも言うこのBengal2はこうしてますますできあがっていった。
このレースに出る難しさは、長期の休暇、資金面のためだろう。仕事をやめるかどうか、スポンサーを捜せるかどうか。しかしそれよりもっと大変なのは家族の説得である。そりゃあ心配しますょ。三河湾で乗ってりゃあいいのに、今の生活になにか不満があるのって。男は夢とロマンと求めるんだといってもかみさんにはわかってもらえない。去年の夏、仕事は忙しくつかれて帰ると些細なことで喧嘩。すきなことやるために自分で忙しくしているんだからしょうがないわね、と冷たい。そうこうするうちにスポンサーも決まり、具体的な計画を建てねばならなくなってきた。かみさんもあきらめたかなと思っていた矢先、そのかみさんが盲腸で倒れた。どうしようか迷った。何がなんでも行くんでしょう、反対だけど、オーストラリアまで行って協力してあげるということになった。
ヨットの方は上架してマストを抜き点検、スタビリティがありすぎるとのことで設計者の大橋さんからのアドバイスで30cm切った。エンジンはボルボの2003T、42馬力ターボ付きの強力なのに載せ変えた。ナビゲーション機器は、風向風速はシルバー、GPS、ロランC、液晶レーダなどはJRCである。無線関係はプロ用短波SSB、アマチュア無線機、国際VHF無線機、気象FAX受信機を積んだ。電気製品が多いので33Wのソーラーを2枚張り付けた。これはレースで本当に役立つことになった。バッテリは150AHが4本、12VサービスX1、12VエンジンX1、24V用(12V+12V)X1となっている。
ジェノアは丹羽さんから絶対これだけはというアドバイス、ドイツ製BECKMANのファーラーにした。セールはショアで作り、No.1,3,4,ストーム、メイン、スピンは非対象が大小2枚、対象が1枚積んだ。前回のケブラは一航海でぼろぼろになっていたので全面的に作り直すことになり、費用がかかった。
無線でコンピュータ通信をやっていた僕は、ヨットにもラップトップをつみパケット通信を試みることにした。装備はPC286L、拡張ボードユニット、画像ボード98TV(ブレインズ)、8mmビデオ、パケット用モデムTNC24MK2(タスコ)、24VからAC100Vにするインバータである。
台風19号が来た。上架してあったので心配したが、なんとかやりすごした。このときNORCの保険に入った。外装も塗り変えようということになり、真っ白に塗った。
ヨットを伊勢から碧南へ持ってきた。回航メンバーを集めた。碧南ヨットクラブの安藤さん、柳沼さん、僕の大学時代のクラブの同期で谷岡君、フリーカメラマンの竹下君、そして僕の弟が乗ることになった。10月より準備のため、毎週火曜日の夜ミーティングをした。
国際免許を取ったり、アマ無線の免許の英文証明、パスポート、ビザ、手続きに時間がかかった。回航出発は12月2日 日曜日昼と決まった。
12月1日衣浦の税関へ行き出国手続きをする。最後の新鮮食料などの積み込み。6人分は結構な量となった。
翌2日、天気は良く北よりの風が風速7m吹いている。予定通り出発することとした。碧南新川港には150人ばかりの人が集まってくれた。反対していた親父も来てくれた。行ってきますの挨拶の後、花束、紙テープを延ばしながら離岸した。碧南ヨットクラブの船が伴走して、励ましてくれる。防波堤を出て、自分はNo.2+2Pリーフを指示したが、見送りにきてくれた丹羽さんが3本指を出し3Pにしておけと。湾内は物足りなかったが師崎を抜けて、伊勢湾からの22ノット(約11m)を越える北風を受けるとその意味が良くわかった。一艇一艇、「じゃあがんばれょ」と言って帰って行った。ジーンとしているのも束の間、北西の風うねりつよく安藤さん、竹下君、僕のほかはゲーゲー。その日の夕食は作れず。家とは近いので21MHzがスキップして定時交信もつながらなかった。自分の属するJR2YECパケッタハムクラブのJA2ATS平野さんが中心となって定時交信を支えてくれた。回航は朝夕の6時30分より21MHzでおこなった。
オートパイロット(自動操舵装置)がうまく働かない。風が追手でうねりが大きいせいもあるのだろうと思っていたが、どうも一時間くらいで暴走するようなので本体CPUの不良とあきらめた。デイラン195マイルと順調に南下した。
夜になるといろいろ頭に浮かぶ。うねり風ともに強く辛い、はじめての夜となった。まだ始まったばかりなのに、やめればよかったかな等と思う。いつでも起きれるようにと合羽を着てフォックスル(船の前のほう)で横になっていたら狭所恐怖症のようになりいても立ってもおられない変な精神状態になった。ハーネスで胸を圧迫していたせいもあるだろう。いざ出港ということで少し気張っていたせいもあるだろう。緊張していたのかも知れない。リラックスして行こう。そう一人でがんばらんと、と自分に言い聞かせた。なんか気がくるいそうだ。..
3日になり昼オケラネット(ヨットのアマ無線マリンネット)に通じた。なんかひと安心した。うねりひどくまともな食事が作れない。ラーメン、リンゴ、トマト、スープの毎日。まだ中波が聞こえる。ラジオから交通道路情報を聞き、何かずいぶん昔に自分も渋滞に巻き込まれたことを思い出した。へー20kmの渋滞、もう考えれない。ついでに忙しかった夏の間の仕事を思い出す。でももう船の上では難しいことは考えれない。
12/4陸上無線サポートをしてくれるJA2ATS平野さん、JR2GAG磯村さん、JO2PWDうちのかみさん、とはじめて無線でつながった。オートパイロット君も船酔している件を伝えた。ジャイブ、メインセールのリーフ(縮帆)等チームワークも慣れてきた。かつお、続けてシーラが釣れた。竹下君がカレーライスを作ってくれた。皆が分担してやってくれる。そう一人でがんばらなくても、僕がやらなくても、かえって僕がやらない方が皆がやってくれている。今朝はじめて着替えた。これから長い航海だ。やっと余裕が出てきた。
全員体調良く、昼寝。コース140度、風8ノット天気晴。今の所トラブルは、オートパイロット不能、海水ポンプ不良、対水スピード計不調のみ。小笠原に近くなり皆も早く上陸できるのを楽しみにしている。 12/5 21時父島二見港に入港した。昼間からオケラネットで頼んでおいたJD1BBH和子さんが迎えにきてくれていた。遅くからおじゃましお風呂をお世話になった。ここのお風呂は父島に寄るヨットマンは必ず入っているとも言うべき有名な、ふつうの家のお風呂である。
翌6日に入港手続きをした。メルボルン大阪に出るヨット赤城は11月に来てゆっくりしていったとか、ラッキー&ラッピーは半日で出ていったとか聞いた。丹羽さんになるべく早くオーストラリア入りして、できれば一番に、余裕の準備をした方がよいとアドバイスを受けていたので12月に出たのだかすでに向かっている船がいくつかあった。ジャストラッキーレディーは12月の末のグアムレースに、極楽蜻蛉は12月末、マリーナシティーは1月1日に日本を出たそうだ。各艇はアマ無線機を持っていて、大抵昼のオケラネットにチェックインしていた。
父島は飛行機で来れないため、秘境で良いところだ。ホエールウォッチング、ダイビングが今の流行だそうだ。いづれも和子さん宅(ダイビングショップKAIZIN)で案内してくれる。民宿なぎやには多くのヨットマンが立ち寄っている。2日目はここでお風呂をお世話になった。フォックスルで寝ていて波の音を聞いていればヘルムがわかるとか、父島西の母島へ流れる引き潮はきついから注意せよとかおじさんに聞いた。ほかにも空襲の時、毎朝天気を見て逃げる方向を考えたと。つまり飛行機は急降下するため必ず風上へ飛んでいく、だから逃げるときは風下へ走るのだと、確かに玉にあたる確立は低くなるがなかなか敵に向かって走れないだろうと僕はおもった。
今日は東京からの定期船、小笠原丸がついたので海岸通りもにぎやかです。しかしここはなんといっても物価が高いんです。トマト1個100円にはまいりました。
12/7早朝父島を出港した。母島の西を南下、硫黄島に向ける。コース180度、風は16ノット、晴、船内気温27度、艇速は8ノットをキープしている。順調だ。しーらが釣れた。父島で仕入れたけんけんが良かったようだ。竹下漁猟長が釣り上げた。早速しーらの釣れた様子を画像通信用ファイルを作り、夕方の定時通信の時JR2GAG磯村さんに送った。その後しーらどんぶりを食べる。パンチングのせいか、ラップトップパソコンの液晶半分が暗くなった。
夜になり幾分風が強くなった。天気は快晴。満天の星だ。水平線から水平線まで星が広がり、こんなに星ってあったのかと感激する。天の川も端から端までみえる。星座の名前がわからない。あまりに多くの星が見える。それが降ってきそうだ。平野君が点滅する星を見つけた。グアムへ向かう飛行機だった。
ワッチは6人で二人づつ、2時間毎に一人づつ交代していくこととした。早朝のワッチは辛い。眠い。平野君にティラーを持たした。平野君は大学一年でなんとこの10月よりヨットに乗りはじめた新米である。 12/8朝、イルカが横を伴走。左右何頭もいる。早速8mmビデオ、写真に納める。蒸し暑くなってきた。朝の交信で刈谷は4度と言っていいたが、船内は27度氏ある。日本は冬なんだ。後ろのコーターバースは窓もあるし、扇風機もついている。前のバースは風があまり通らず、船がきしんで走っているようすが手に取るようにわかる。背中の下にあるタンクの上の板がねじれるのがわかる。このバースはずっといい夢を見れなかった。
12/9ウインドベーンを使いはじめた。東からの貿易風が一定に吹いて来るのでアビームで調子がいい。風は15ノット、艇速は9ノットは出ている。30度氏になってきた。谷岡氏の作ってくれたちゃんぽんらーめんがおいしかった。
12/10GUAMをひっくり返しに記載するとMAUGとなる。このモウグ島は小笠原とグアムの間にあり、火山の火口が水面に出ている。南以外の3方向は3つの島におおわれ台風などから避難するには絶好の場所だと丹羽さんが教えてくれた。しかし東からの潮と東風なのでなかなかモウグへ登って行けない。モウグへ下見に行くのはあきらめてグアムをめざした。今日は朝から雲がなく、朝日が水平線から上がった。きれいだ。海上でも水平線近くには雲があることが多くなかなか水平線からのぼる太陽はみられない。毎日ポート側(左)から太陽が登り、スターボ側(右)へ沈んでいく。
12/11恵みの雨。セールに貯まった雨水で皆頭を洗う。身体も拭いた。すっきりした。デイラン160マイル。グアムまで240マイル。610KHzでKUAMがクリスマスソングを流しているのが良く入感する。冷蔵庫が冷えが悪いと思っていたらどうも故障したらしい。中の肉が全部腐ってもう鼻が曲がりそう。
12/13 0000ミッドナイト Apra outer harbor に着いた。ハーバーコントロールKUF810を国際VHFで呼ぶと深夜なので奥までは来るなと。アンカリングして夜明けを待つこととした。しかし水深が結構深い。100ft以上ある。砂地で良く効いた。GPSは非常に正確だ。湾内で十分使えた。チャートで浅いところを水深計でチェックしながらアンカーポイントを探したのだが、GPSのポイントとぴったりだった。皆で着いたお祝いに一杯飲んで寝た。冷蔵庫が効いてないのが辛い。
0800 再びハーバーコントロールを呼ぶ、マリアナヨットクラブはリーフの中にあるから案内無しには入るなという。かといって待っていてもパイロットは迎えにきてくれなかった。そうこうしているうちにGreenpeaceというヨットがゲストを乗せて出てきた。VHFで呼んでくれた。一時間外を回って帰ってくるからそれまでまっていろと。またまた待つこと2時間。やっとセーリングして帰ってきた。そしてパイロットして入港した。丹羽さんに聞いていたし、チャートも持っていたが本当にリーフだらけでこれは知らないとちょっと危ないハーバーだ。ブイを拾って停泊した。すぐにGreenpeaceにこの日は乗っていたDicky さんがテンダーでやってきた。彼はWAIMEAというヨットで日本に行ったとかマリアナのヨットはVHFch68を聞いているとか、いろいろ教えてくれた。
1300すぎ隣に停泊してあるLADYLEEのPeter さんがやってきた。ピーターさんとは朝のシーガルネット(21.382MHz キーst.JE8UAN )でヨット平成号の茶谷さんから紹介されていたので知っていた。ピーターさんは朝からドッグやコマーシャルポートをCSK Bengal 2探していた。開口一番に「もうここに入っていたのか!」と歓迎してくれた。もちろん英語ですが、何とかなるもんです。同じ海を越えてきたシーマンとして合い通じるものがあるのです。
1600すぎてやっとImigrationが来てくれた。マリアナヨットクラブのクラブハウスの前に行くのだがリーフをぬって行かねばならない。また風上、東風がずっと吹いているここでは行きのテンダーはずぶぬれとなってしまう。ピーターが手伝ってくれ無事入国手続きは進んだ。しかしCustomはもう5時だから明日になるだろうと。それが終わらないと上陸はままならんとのこと。かくしてのこりのクルーは1日船上で待ちくたびれ上陸はおあづけとなった。クラブハウスでは麦酒1本1ドルで売っていて、久しぶりに冷たい麦酒で生き返った。こうしてグアム上陸は1日半ぶりに実現した。やっと外国に着きましたょ。
12/13夕方結局上陸できず、ラーメンとなった。本当は今晩は、ダウンタウンでステーキの予定だったのに。クルーの安藤さんが、こんなもんだょ、みんなのんびりしているから、2日で上陸できればいい方だよって。ウイスキーを飲みながらグアムまでの回航中に取った8mmビデオをみんなで見た。この日修理用部品を持って日本から邨瀬氏(レースパートナー)、藤田さん、うちのかみさんらが来てくれているはずだかマリアナクラブには電話もないし、国際VHFもあるけど電源は入ってないので連絡とれない。(1992には鉄筋のいいクラブハウスができる予定とか。)
12/14 朝8時ハーバーコントロールからCustomに連絡してもらった。「Good Morning Sir! 」ではじめることが大事である。外国ではまず挨拶です。無線でもしかり。9時にはCustomが来てくれ晴れて皆上陸となった。ちょうど日本からのサポート隊もハーバーに到着した。その日の夕方、金曜日恒例のマリアナヨットクラブのバーベキューパーテイーがあった。グアムには各国からヨットマンが来ていて楽しい。ヨット英語ならなんとかなってしまう。すぐ友達になった。20時頃、ピーターさんのLADYLEEが流された。考えが貧困な僕らはてっきり盗まれたのだと勘違いしたが、実はブイからコンクーリートのアンカの間のムアリングロープが切れ流されたのだった。運良くリーフの間をぬい軍港まで流され軍の岸壁でキャッチされた。次の日うちも心配になりアンカを追加した。ここのブイは一部はチェーンで結ばれているがゲストが使う日頃使ってないブイはロープでまた貝が付いて傷んでいる。東風がずっと吹いているのでそのストレスで切れる恐れもあるので十分注意が必要だ。すぐ後ろはリーフだから。
12/15 今日も気持ちいい風が吹いている。昨日はLADYLEEの漂流事件でパーティが一時エキサイティングした。3時に整備を終了し船を離れ町へ出た。ギブソンズへ買い物に。途中食べた特大のサンドイッチが胃にもたれた。ときどきスコールがやってくる。weatherFAXを取ったら台風29号が向かっていることを知った。心配である。時期ハズレ、去年も大きいのがクリスマスに来たとかいっている。コンドーミニアムを借りている。せっかく来てくれたかみさんとなかなかゆっくりできない。悪いなあと思う。でもグアムは修理でき次第すぐ出たいし、みんなの手前もあるし。それにしても台風いやだなぁ。今日は日本も日曜日。また寂しくなると泣くかみさんを慰める...
12/17 陸上サポート隊は帰っていった。急に寂しくなった。毎日気象FAXとるがどうもこちらへ来そうだ。すでに燃料、水、食料を補給。谷岡君、佐藤篤郎と柳沼君とクルーの交代もすんでいつでも出港できる状態だ。でも台風から逃げ切れそうもないと判断、グアムで待機とした。
12月17日車で町へ買い物に出た。時はクリスマス前、クリスマスのデコレーションとクリスマスソングでいっぱいだ。妻や子供達になにか買っていってやりたい気がするが、今から航海が続くしそんなときじゃあない。夜、すき焼き風韓国焼き肉料理を食べにいった。最後の陸上の酒となるだろう。栄養付けとかにゃぁと奮発した。
18日、台風接近で避難港を探していた僕らに、グアムにいる日本人の野中氏がアガット湾の新しいハーバーはどうかとアドバイスをしてくれた。見に行くとリーフがあり、堤防は低くとても台風が乗り切れそうにないのであきらめた。CUSTOMへどこか避難港はないかと聞きにいったが、「それはヨットマンのあんたらの方が詳しいだろう」とそっけない返事。マリアナズヨットクラブのバースは四方リーフにおおわれ、もし流されると危ない。以前マリシテンが打ち上げられている。コマーシャルポートの奥に台風シェルターがある。しかしそこはドラフト2.1mまで。CSK Bengal2は2.7mはないと入れない。無理だ。悔しい。リーフの中でがんばらねばならない。LADYLEEが付けていたブイはチェーンのアンカーロープだったので、それからもやいを取った。係留してあった船はどんどん台風シェルターへ逃げていく。そのたびに、「どうして逃げないんだ」と聞く、「ドラフトが大きくて行けない!」と答えると、「GOOD LUCK!」と残念そうに、そしてまぁなんとかがんばれょという感じに言い残して去っていく。寂しい限りだ。去っていった後の係船ブイををいくつか拾った。そのとき誤ってゴムボートのテンダーを破いてしまった。ついてない。コーストガードに安全なところはないかと聞くと、「君のいるところでいいだろう。他にはないょ。日本からここまできたならプロフェッショナルだろう。GOOD LUCK」、皆がGOOD LUCKと言ってくれる。不気味だ。
19日いよいよ台風の上陸は免れそうにない。15日に996mbだったのがもう920mbに発達している。最高風速は95ノット。朝LADYLEEのピーターさんが、無線で安全を願うと言ってくれた。そして常時無線聞いているからと。今日は3人陸へ最後の買い物に出かけた。夜のワッチに備え、昼寝をしたり画像通信の原稿を作ったりした。3時頃、皆帰ってきた。何かみんなのようすが暗い。夕食はハムステーキと納豆サラダ、おいしかった。また腹いっぱい食べてしまった。僕は早々に寝た。
20日朝3時、安藤さんが起こしてくれ、ワッチを変わった。00時に起きるつもりが寝過ごしてしまった。いかんなぁ。この日記を付けている今は4時です。昨夜もTV、FM、国際VHFはクリスマス音楽と台風情報だらけ。それにしても谷岡氏の持ってきてくれたヘッドライトが助かる。20マンの回航費用がグアムに長居していたのでなくなってしまった。それにしても恐れていた台風にあってしまった。12月15日に発生した台風29号RUSSは10ノットでゆっくり西へ向かっててグアム直撃となった。上陸は21日になるだろう。今から思えば17日に出港していれば逃げ切れたろうか、それはわからない。台風がきているのに出ないわなぁ、普通。毎日JMHで気象FAXを取っていた。JMHだと北緯9度付近から北の情報で、台風ができてもすぐグアムだ。グアムのNPNは11月にスケジュールが変わり、インド洋ばかりの情報で役立たなかった。コーストガードは毎時台風情報を流していた。
12/20は、台風接近のためもうテンダーで陸上も行けなくなった。船内で1時間おきに気圧、風向風速をチェックした。夜まで気圧もそう下がらず1000mb、風も30ノット前後だった。日が暮れると1000mbを割り、風も40ノットオーバーと急に強くなってきた。マリアナクラブの係船ブイを4つ、自分のアンカーを2つともやいを取った。船内はもうやけくそとクリスマスのデコレーションをしてメリークリスマス。戦場となるとはこのとき誰も考えず、ビーフのたっぷりはいったカレーライスで元気を出した。毎時ワッチを組む。全員が起きていた。21時頃より風50ノットオーバー毎時間ごとに最高風速の記録が更新される、もうこれくらいにと祈る。外の風雨ははげしくとても船の外には出れない。湾内に停泊しているとは思えないほど船が揺れる。波の悪いところをパンチングしているかのように。23時MAX88ノット、米軍基地の電気が停電した。港内は真っ暗。強い雨で陸も見えず方向もわからない。
23:30悪夢が始まった。バーンという大きな音と共に船が風下にふられ、スターンからまともに海水がなだれ込んできた。僕と安藤さんはとっさに合羽の上を着て飛び出した。すでに90ノット吹いていてバウのもやいを見に行ける状況ではない。状況がどうなっているかを考えるまもなく大波がコックピットに押し寄せ、すぐ水船になった。どうもメインのもやいが切れ、ヨットが風下を向いてしまったようだ。スターンから風、波、雨、を受け僕ら二人は生きたこごちがしなかった。流されぬように僕らはメインシートにぶらさがっていた。バケツでコックピットに貯まった海水を汲みはじめた。昔学生時代に木造のスナイプが沈をして、その後浮力も弱いためデッキすれすれに貯まった海水を腰が痛くなるほど必死でかいだしたのを想いだした。苦しい。足元まで少なくなってきたかなと思うと、ざぶんと次のが入ってくる。雨と風で目もあけておれない。コンパニオンウエイは閉めてあるが船内にハッチの隙間、クォーターバースの窓の水密の悪い隙間から流れはいった。後から聞くと、中は中で船内にどんどん入ってくるのでポンプで必死に排水したという。一時床板以上に貯まった。
中に残された3人はライジャケを着ていつでも退船できるようにしていた。柳沼君はハンデイVHFをビニール袋にいれていた。気がつくと2時まだまだ暴風雨は続く。どうもスターンから風波を受けていることがわかった。23時まで北東風90ノットだったのが急に90度南にふれた。そのときもはや、もやいを調節することはできなかった。コックピットにはいる水をバケツでくみ出しながらいろんなことが頭に浮かぶ。下は短パン、海水はそう冷たくないが風で冷える。もう座礁か。レースはやめよう。妻子供の顔が浮かぶ。皆を守らねばいけない。どうしたものか。EPIRBか。いつ退船しようか。この嵐の中陸へも行けない。もう少しがんばろう。安藤さんは何もいわずくみ出している。
午前4:30頃中にいた柳沼君が「気圧が上がりはじめたぞ」といった声でほっとした。5:40少し落ちついてきたので船内へ入った。船内の3人も排水作業で必死。苦しい夜だった。誰もが一度は退船を考え、ダメかもしれないと思った。明るくなってきた。まず船を風上向けないといけない。風向風速計等はうしろからすごい勢いで水が入り最高93ノットで壊れた。6時から作業をはじめた。風力6は吹いているだろう。まだまだきつい。やっとのことで南東を向けた。ピーターさんが声をかけてくれた。平野君が「Captain is busy,Bengal is safe.」と答えた。9時jo2pwdかみさんと無線連絡を取る、「助かった。」と。21日は昼まで休息、午後から濡れた船内のかたずけを始めた。それにしてもひどい台風だった。
12/22 21日は悪夢の夜だった。今日から片付けを始めた。後から波を受けているとき、波の上でスターンがバンバンとあたっている感じだった。キールがリーフにあたっている感じもした。船底に潜ってみるとキールの付け根あたりにひびを見つけた。新たなショック。マリアナヨットクラブへシャワーを浴びにいった。クラブハウスの茅葺きの家は全壊に近い。シャワーが気持ちいい。夕日がきれいだ。
12/24 台風の痛手もクルー5人の必死の作業でほとんど改修した。昨日潜ってみてわかったことだが、どうも海底のコンクリートのブロックが移動していたようだ。ムアリングブイが水中にあるのだ。どうりでムアリングロープを引いてもブイが上がってこないわけだ。6本も取っていたもやいも、コンクリート基台ごと流されていたわけだ。まぁ無事で良かった。グアムの市街も相当ひどく未だに停電している。グアムみたいに暑いところで電気がないと、つまり冷蔵庫が使えないので食料品は全滅である。スーパーはくさりかけの肉、魚を放出し、新鮮野菜はない。氷もいつもは30セントくらいが3ドルにもなっている。
台風の被害状況は、バウのはる木製部に亀裂、チェーンプレートが曲がる、スナッチブロック、20mmのシートが切れ、キールのポートサイドに亀裂、スクリューのゴムカバーがはずれた。船内の浸水は濡れないと思っていた、クォーターバースに至り食品が濡れた。うどん、素麺、米の一部が全滅。野菜類も一度濡れたのはこの暑さで傷み始めた。24日夜、マリアナヨットクラブのベンさんの家でクリスマスパーティが開かれた。BYO、つまりBring you own b;bはブーツ(プレゼント)かビールか。アメリカスタイルのクリスマスイブを満喫した。
12/25 本日はクリスマス休暇としゆっくりした。町のスーパーギブソンズは台風の後とクリスマスということで非常に混んでいた。
12/26 クリスマスは終わった。マストに登った。ハリヤード類の傷みがひどい。回航はいいがレースはなんか心配だ。皆も早く出発したがっている。はやく日本から物資がきてほしい。毎朝かみさんと定時交信をしているがなかなかゆっくりも話せないので、IT&Eから国際電話をかけた。
12/27 邨瀬氏と藤田さんが航海計器など修理用部品持って日本からきてくれた。早速、交換修理す。ヨット平成号の茶谷さんがグアムに着いた。ヌメアから40日近くかかり、台風から逃げるため南西へ走ったのでまたまたグアムに着くのが遅れた。ヨットLADYLEEのピーターさんの友達でもある。
12/30 いよいよ準備万端。次の寄港地ギゾ(ソロモン)へむけて1130出港した。邨瀬氏、藤田さん、ピーター、茶谷さんが見送ってくれた。ハーバーから出るとそとは結構うねっていた。
正月です。朝、初日の出にお参りしました。南へ帆走しているので船の左手から日が登ります。やはり思い浮かぶのはかみさんと子供の顔です。12/30 11:30グアムを出港、風20ノットうねり大きく気分の悪い2日を過ごしました。天気はよいのですが波をかぶるためハッチを閉めているので、船内が非常に湿っぽい。31度C蒸し暑い。ワッチの時はカッパを着ている。一時間に一回はスプレーをかぶる。30,31日はうねりの中船が揺れていてくうもの食わず。アマ無線もそこそこにした。自分も風邪をひいたのと重なって、えらくてしょうがなかった。
今日は気分がよい。カズ君が雑煮を作ってくれた。正月らしい気分になった。陸上ではめったにみない紅白歌合戦だが、昨日はヨットの上でNHKの中波が何とか受信できた。夏頃はやっていた「踊るポンポコリン」が聞こえた。あの夏頃は忙しかった。バースで横になって聞いていた。なつかしいやら、何かずっと昔のような、そしていろいろ考えるとちょっと涙ぐみそうな気分になった。00時になると除夜の鐘が聞こえた。海の上は静かだ。いつもだと深夜の初詣に行くのに。
昨日夕方、エンジンの排気パイプがエンジンボックス内で抜けびっくりした。トラブルは安藤さんがすぐ対処しOKとなった。ウインドベンが調子がいい。コンパスライトは早くもまた断線したらしい。直そうと思っていてもつい、翌日に回してしまう。十分時間はあるしとつい思ってしまうが、明日はどうなるかわからないので今直して置くことが大事だ。とわかっているのだが動けない。ところで洋上ではガスタイプのハンダゴテが強力で有用だ。お昼オケラネットに出て、JR2GAG磯村氏とQSO。年賀の挨拶をした。
1/4 赤道無風地帯に近くなった。しかし今は久しぶりに風雨が強い。小さな低気圧に入ったようだ。五目飯を腹いっぱい食べた。ビールが旨い。昨日は船底のあかくみ、ウインドベンの修理とごそごそした。もっとみんなが気がついてやってくれたらいいのにと思ってしまう。今日は午前1時から5時という一番眠い苦しいワッチをした。昼に起きると安藤さんがビルジぬき、充電をしてくれた。そう自分思いつめんと、そしてみんなも助けてくれてるじゃないかと自分にいいかした。
1/5 このところ落ちついてきたので、トリンブルのGPS、ソニーのイメージトランシーバーなどのモニターレポートを書いた。ワープロを打っていると頭が痛くなる。漢字も忘れ気味。暑い。今日は虫干し。船内のマットなどをいっせいに干した。洗濯物も乾くだろう。軽油の減りが心配になりエンジンは1日一回に充電用に回している。オートパイロットは電気を食うので、ウインドベンを多用する。ウインドベンは結構こまめにスターンまで行って調整しなければ行けない。ドジャーの中にコントロール部があるオートパイロットのほうが楽は楽なのだが。風がない。いつ赤道を越すことやら。暑い32度Cだ。快晴、行く手に雲が出始めた。スコールがくるかな。
1/5 グアムから5人で回航している。常時2名のワッチ、4時間ワッチ6時間オフとなる。オフの時は最近では皆、余裕ができて本を読んだりしている。海外放送を聞いてみたり、アマ無線をしてみたり、うねりも小さいので食事もまともに作っている。無線は、朝夕は6時半よりJA2ATS平野さんとの定時交信、7時からシーガルネット、12時よりオケラネットに参加している。
オフワッチの主な仕事はやっぱり睡眠だ。海の上ではどうしても細切れとなる。ヒール(傾いて)したり、波に叩かれているのは寝ていてもわかる。13:05柳沼君が「あれっ、ポートサイドのデッキが浮き上がってるぞ」と言った。見ると、スターボ帆走中No2ジブリーダーの下、ギャレイの前のバルクヘッドとデッキの間が50cmほど浮いてしまっているではないか。CSK BengalUは細い船型でねじれながら走っている感じがする。特にタンクの上のバースで寝るとギシギシいって船と一緒にこちらまでねじれそうで何となく寝苦しい。レース艇なので中はがらんどう、むき出しになっている。バルクヘッドはヨットの構造を支える重要な部分だ。この船は前回のメルサカで丹羽さん夫婦が太平洋を往復している。2往復目だ。往復ともなると2万キロ以上になる。かなりストレスがかかるのだろう。あちこちのシートが切れるし、がたがきているのかなぁ。ちょっと心配だ。シドニーへ早く着いて整備したいと思う。昨日は、平野君がウインチで頭を打ち心配した。風は時々強くなる。雨、スコールがやってくるのが空を見ていてわかるようになった。今日はデイランとうとう40マイルだった。赤道無風地帯だ。あぁ、もうレースはやめて回航して帰りたくなった。しんどいなぁヨットも...また船体がギシギシいっている。
1/6 11:42赤道を通過。このところ無風地帯だったので、やっと越えたという感じだった。雲は小刻みの小さな雲が点在している。天気は快晴、コース140度風は30度から、艇速5−6ノット、気温は33度。スピンランの中、緯度0度に達した。11:30より赤道祭をおこなった。赤道祭は16世紀ごろ、もともと赤道無風地帯という帆船航行の難所を乗り切るための宗教的行事である。その気持ちが良くわかる。昔から船乗りは早く陸地へと思いながら、この赤道でお祭り騒ぎの洗礼式で航海の無事を祈ったのだろう。「海の慣習と伝説」杉浦昭典著舵社を参考にとりおこなった。海神ネプチューンを柳沼君が行い船長の私が洗礼を受けた。この様子はパケット通信画像航海記で日本にも送られた。スピンの青色がとても良く、海の青さ、空の青さ、すばらしい。スピンの日陰で昼寝と気持ちのいい1日だった。
夕方になると例によってスナック クラブベンガルが開店した。夕日を見ながら全員がコックピットでちびちびと飲む。地上の世俗とはとおく離れた世界。竹下君(カズ君)、柳沼君がごそごそとつまみを作り始める。カズ君の腕前は大した物で、おいしかった。なんとヨットの上でてんぷらまで作ってしまった。彼はプロカメラマンでもありシドニーまで乗ってくれたがその間の8mmビデオはそれはきれいにとれている。一杯のむと日が沈み満天の星となる。もはや北極星は見えない。こんなに多くの星があったのか。2日前に南十字星を見た。
1/8 今日は本のことを考えた。えーとタイトルは...。このところ朝は軽くクラッカー、インスタントラーメン。昼はカレーとか今日はお粥、夜はどんぶり物。そしてビール、水割りを飲む生活。ワッチに合わせて。そううねりもなく風も弱いのでのんびりしている。南緯4度まできたら風が安定しバンバン走りだした。またスピンを上げる。気持ちがいい。ヨットマンあこがれの南の海だ。毎日32度、シャワーを浴びたい。野菜が減ってきた。肉はもう腐ってない。後、缶詰とお茶漬けくらい、いままでちょっとぜいたくに食べ過ぎたかな。5人とも元気なのが何より。早く陸へ着きたい。その一心。
今日は新聞faxを取った。AXIダーウィンの気象ファクスも良くはいる。ヨットで太平洋というと、皆は「優雅ね」と、うらやましく思うが乗っている方はそう楽しいことばかりじゃぁない。陸上の人に心配をかけてはすまない。航海の安全を祈る。
1/10 午前2時、夜のワッチ柳さんと一緒だ。流星の大きいのを見た。ガバジュース+ラムがおいしい。月は三日月、夜食のカップラーメンがうまい。グアムで買ったつまみの豆が好評。南十字星は毎日見える。ブーゲンビル島の西を漂っている。風がない。オートパイロットが少しづつ動いてまるで漕いでくれているようだ。ソロモンにできた熱帯低気圧が心配。毎朝の定時交信が比較的良く聞こえる。21MHzを中心に14MHzも使う。メインセールが2Pで破れ、3Pリーフ。No2ジブリーダーはバルクヘッドの件で使えず、小さいまま。よけいに走らない。なかなか進まない。オケラネットによるとギゾでヨットナルトの堺さんに会えそう。VK3BJBジョアンさんがオーストラリアから気象インフォメーションをくれる。平野君のいれてくれたお茶が旨い。
1/11 疲れてきた。スコールの雨水をためようとしてメインは破くし、No1ジェノァも破くし、セールカバーを流してしまった。なにかとミスが出てきた。気がボケてきたのだろう。暑いせいもある。気をつけなけなければいけないといいきかす。酒ばかり飲んでいてはダメだ。自分がキャプテンなのだからいろいろ気がつかないと。皆がアドバイスしてくれる。少しお節介気味の感じ。やるのは自分だ。レースか。..言うは易行うはかたし。2週間も海にいると疲れてくる。気も十分注意しているつもりでもボケが出てくる。慎重にいこう。ぐっすりねむれない。太平洋縦断か、大変なことだ。自然、精神力、他人に頼ってはと思いつつ、もう少しみんなが気がついてくれればと思う。ダブルハンドに出るんだ。シングルハンドでやっている人もいる。僕は普通の人間だ。ロングレースもこれ切りにしよう。雑念がわく。やっぱりいろいろな面で疲れてきたんだ。早くギゾへいこう。
1991/1/12 12/30にグアムを出港してから2週間、赤道を通過し南下、やっとギゾへつきました。南の島。ヨットマンあこがれの南の島クルージングです。入り口はリーフが多くとても夜は入っていけない。チャートにある燈台は木の杭だけ、先の板は吹っ飛んでいた。カスタムへ行くと、昼休みということでラーメンを食べ待つこととした。33度暑い。ギゾ港は、小さいが3方を囲まれた良い入り江だ。カスタムへ2時過ぎに行くと手続きをしてくれた。グアムより厳しい。船にきて酒は一人2リットルまで、ビールもしかりという。よってウイスキーは封印されてしまった。うちの他に5はいほどのヨットが停泊していた。すぐにそこの人がやってきて、友達になった。イミグレーションの人は今日はフィッシングに出かけているので、手続きは明日になろうとのことだった。のんびりしている。国際16ch、誰も聞いてはいません。シャワーを浴びたいといったら、カスタムの人がパブリックの水道に連れていってくれた。ここは皆の洗濯場らしい。水道はなくどうも山の上で雨水を貯水しているらしかった。どうも現地の人の目が気になる。
1/13 心地よい朝を迎えた。ぐっすりねむれた。全く波が立たない。静かだ。6時半、日が登った。ここの人は日の出と共に活動開始だ。島からいろいろな声が聞こえる。子供達の多い島だ。ソロモンの首都はホニアラで、そこへ行けばなんでも揃うのにとカスタムの人にいわれた。何かにつけ船にきてアドバイスしてくれるのはいいが、そのたびにビールを渡す。..島の子供達は無邪気だ。手を振ると振り替えしてくれた。入国税220ソロモンドルを請求された。1ソロモンドルは60円くらい。なんとあの壊れた燈台使用料が100ドル。土曜日入港時間外で100ドル。カスタムの人の時間給が22ドルだそうだ。クルーのそれぞれには入国のためのお金は必要でなく、短期のビザを発行してくれた。朝50センチほどの体長のロブスターを売りに来た。2ドルだという、120円か...買った!。味噌汁にいれ食べた。生はなんか危ない気がして。
1/14 炎天下の中、破れたセールを縫ったり買い出しに行ったりした。ここにはオーストラリアからの物資、中国人経営するスーパーが多い。菓子類は全部しけっていた。ガスは手に入らず。軽油は手に入ったがどうも純粋でない。ヨットナルトの堺さんが入港してきた。島唯一のギゾホテルでディナーを食べた。裸電球一つ、ここはマラリアの感染地域になっている。暗いところにいる蚊は、その媒体として恐れられている。なんとそこへスキンガードは持って行ったものの、半ズボンで行ってしまった。食事はエキゾチックでおいしかったが、マラリアの蚊を心配しそれどころではなかった。
1/16 10:45ギゾ島を出港した。楽しい4日間だった。物資はLPGを除いて、食料、軽油は手に入った。このところ雨が少なく飲み水はもらえなかった。シドニーまで1600マイル、がんばろう。ずっといい天気、毎日のんびりビールでも飲んでいると南の島最高の気分。しかしレースの準備のため早くオーストラリアへと気がきでない。はやくもグアムで2週間も道草してしまっていたから。3−4ノットのクローズホールド、風は弱い。今年の赤道無風帯は赤道より南に変移しているようだ。1/15柳さんがギゾホテルでアマチュア無線局を開局H44/JH1PEP、珍しい地名からの運用だったので世界の無線家から呼ばれQSO(交信)。
ギゾの島を探索したが、このところ船内で余り歩かないせいか足が弱り丘を登るのがえらかった。1/16の早朝、ゴムボートのテンダーで水際の水上生活の現地の人の家、無人島の椰子のみを拾いに行ったりした。ギゾは物価も安い。1ソロモンドルは60円くらい。ビールはオーストラリア産で一缶3ドル、果物は1ドル以下、軽油は1リットル1.5ドル。ホテルの食事は1食25ドルだった。ヨットナルトの堺さんがマラリアの薬クロールキニーネをくれた。船出して1週間位して高熱が出たらこれを飲むようにだって。ロシアンルーレットみたいなものだ。1週間も走っていれば発熱してもすぐに陸へは行けない。
1/17 風がない。ギゾで買ったフレッシュだと言われ買った卵が全滅だった。腐った臭いが激しい。どこがフレッシュなんだっ。
1/18 風ない。進まない。風がなくても疲れる。毎日夕日がきれいだ。だいだい色、黄色、ブルースカイ、紫になることも。夕日、海、空のこれだけだが、これらの色がさまざまで調和がとれすばらしい。写真に取る。かみさんにみせてあげたいと思いながら。それが終わるといつもの大天体ショウ。いつもわかるのはオリオン座。南十字星はすぐ見つけれるようになった。今日イラク戦争、湾岸戦争が起こったことをNHKの国際放送で知った。昨日の定時交信で戦争が起こるかもと教えてもらったが本当になったらしい。遠くの世界のことであるようで、またこんなところにいていいのかなと思う。日本が戦場になっていないようなので一安心だが、世界緊急時にヨットになんか乗っていて.と言われそう。それよりレース中止になるかもしれないな。
1/20 暑い毎日だが昨日より少し風が出てきた。今日はNo.3+フルメインで6ノットで調子がいい。午後3時右手に潮吹きを見た。少し遠いがスコールの下で潮を吹いているのが見えた。どうも鯨らしいと安藤さんが見つけて言った。皆一斉に「ホエールウォッチング」、双眼鏡でみると尾びれがみえた。
1/20 ギゾについて。燈台は頭がちぎれているものもあるので、水深計を見てチャートと良く照らし合わせて入港することが大事。夜は無理だろう。国際ch16は誰も聞いていない。時に停泊中のヨットが聞いていてくれるかもしれない程度。カスタムはアンカリング後、テンダーで岸へ行きすぐのところにある。イミグレはメインストリートを歩いていくとポストオフィスの裏にある。食物は豊富だが、肉類は少ない。魚は売ってない。...
1/21 7ノットと好調。午前0−4時のワッチ、つらい。満天の星をスケッチした。いろんなことを考える。朝日が登る。6:30より21MHzで定時交信、7時よりシーガルネットにアクセス。するともう暑くなってくる。朝はパンとか前夜の残りご飯をお茶ずけにしたりしてたべる。11時からNHKの国際放送を聞く、もう暑くて太陽は正中高度。セールの陰に隠れる。オケラネットに出る。いちばん暑いときだ。こんなときは冷えた麦茶より暑いお茶がいい。第一飲み過ぎないのでお腹にも良い。無線機の前の床がいちばん涼しい。水面に近い、そこで昼寝をする。午後4時になると日がかげり始める。少し涼しくなる。南太平洋を満喫と言いたいところだが、暑くてボーとしてくる。少し飽きてきた。クルーも皆、疲れてきたようす。ちょつとでも早くとスピンを上げる。なんとしても早くシドニーへつきたい。風はいずこに。あぁつらい。風がないのも辛いものだ。レースもいやになってしまう。試練か。脳みそが焼けたとどこかに書いてあったが、本当に暑い。今日は体温と同じ36度。
1/22 昨日は寝不足だったのか弱気だった。今日は早くオーストラリアに行ってレースの準備をせにゃあという気になる。アドベンチャー、チャレンジ、簡単じゃあない。シドニーの段取りが毎日の定時交信で決まっていく。1/23には邨瀬氏がシドニー入り、2/3にはうちのかみさんが子供達と応援に来る。あと1100マイル。今月中にはつきたい。今日もスピンを貼って快調。昼間は暑く何もする気になれない。33度。LPGが後一本、冷蔵庫を止めた。我慢、試練、日本人が好きな言葉だか、大変なことだ。苦あれば楽あり。毎朝の定時交信には平野さん、かみさんが出てきてくれる。「今朝は4度です。」とまだ暗い冬の朝、電気ストーブで足を暖めていると。毎日ありがたい。寒くて大変だろう。こちらはヨットに乗って楽しいことをしてと思われるが、何のことはない結構苦しいものです。早く陸へ上がりたい。ギゾを出て6日になる。
1/23 夕方スコールがやってきた。タイミング良くスピンを降ろし、メインを1ポイントリーフへ土砂降りの雨の中、頭を洗う。身体も。そして残った水をポリタンクへ。この雨水が冷たくておいしい。100Lは貯まったろうか。後はカラット晴れて夕暮れ。気持ちがいい。久しぶりのシャワー、さっぱりした。夕食はうどん。これまた久しぶり。今日の夜のワッチは午前2−6時、風が落ちて星が水面に写る。きれいだ。三日月が出ていた。
1/24 満天の星のプラネタリウムもおわり4時20分日の出。久しぶりにうねり、揺れる。15ノット以上の風、パンチング。スプレーをかぶる。涼しいより寒い。
船のスターン(船尾)にあるアンテナタワーのウインドセンサーに大きな鳥がとまった。陸が近くなってきたのか、オーストラリア大陸から飛んできたのか、ひと休みして行った。早速写真を取る。このところ海鳥がいろいろやってくる。真っ黒なもの、胴だけ白いもの、尾が長いのや、...やはり白いのが美しい。
このアンテナポールには日本から一匹の蜘蛛が住んでいた。この蜘蛛はグアムの台風にもめげず、ギゾの暑さにもめげずついてきた。餌はどうしてるのかと心配した。ギゾでは蚊を食べていたようだ。今はきっとひもじい想いをしているだろう、さらに鳥に食われてはかわいそうだ。このところトローリングはすべて餌を食いちぎられている。きっと大きなマグロがかかっているのだろうが、艇速が早いのとてぐすが細いので切れてしまうらしい。ワイヤーがいる。
1/25イラク戦争が勃発して1週間になる。こんな時にヨットに乗ってとかみさんが無線で言う。どうなるのか世界は。何となく不安になり、こんな時家族で一緒にいたいと思う。
1/26また深夜のワッチ、CRUX、アールクルーのカセット、ホワイトワイン、最高の設定だ。昨年の夏の準備で忙しかった頃を思い出す。ずっと昔のようだ。グアムを出港したのも1ヶ月前。海上保安庁のOBの方が書いたサバイバルの本を読む。やはり海は恐い。生きる精神力が大事だ。冗談じゃない、こんな所で死ねるか、妻も子供もいるんだ。がんばらねば。シドニーまで500マイル。いろんなことを考えながら船はどんどん南下して行った。
1/28 一クルージングは、一週間がいいところだ。それ以上海にいても飽きてきてしまう。足の早い船がいい。クルージングも海もいいがやはり陸へついていろんな人に会えるのがいい。シングルハンダーのヨットマンでも人恋しくなる。
星。南十字星、アルファー、ベータ、オリオン座、シリウス、アルテパロン、ポルクス、サソリ座のアンタレス、北斗七星が見える。天測用の略歴の後ろのページで星の勉強をした。何百年も前、ポリネシアの人々はこの同じ星を見ながらマゼランから太平洋をわたって、フィジー、タヒチ、ハワイまで行ったそうだ。このほしをみながらか...
今夜は寒く長袖長ズボンが必要なくらいになってきた。
朝11時オーストラリア大陸がやっと右舷にボヤッと見えてきた。オーストラリアは大きな山がなくなだらかなので、よっぽど陸へ近づかないと岸が見えてこない。本船によく行き交う。今日の海鳥は鳴く。なぜか遠洋の海鳥はあまり鳴かない。
1/29今晩入港できるかどうか。風強い。タスマンの海は天気が良くても南風が冷たく、東岸流の暖流とぶつかるので波も悪い。はじめての港なので翌朝はいることにしてスピードを加減した。あと100マイルを切った。残りのガスを使って冷蔵庫を動かした。久しぶりの冷えたビールがうまい。
1/30 午前3時30分エンジンON。やっとオーストラリアです。日本から4000マイル。よく走りました。グアムの台風、ギゾ島など思い出はたくさん。何とか着きました。やはり回航して良かった。ちょっぴり自信がついた。いい日の出です。ちょうど月はシドニーの町へ沈んで行った。ポートジャクソンに舳先を向ける。国際VHFでヨット赤城の内尾さんが呼びかけてくれた。CYCAのハーバーから無線が届いた。続いて先着の邨瀬氏、藤田さんと連絡がついた。首を長くして待っていてくれた。ポートジャクソンにはいるとそこはフェリーが行き交うは、ボートやヨットがところせましと走り回っていた。近くを追い越して行ったボートが「Welcome to sydney!」と言ってくれた。湾の奥へ入っていくとオペラハウスが見えてきた。まちがいなくここはシドニーだと言うことを実感した。感激だ。オペラハウスは思っていたより茶色っぽかった。
ニュートラルベイにあるカスタムへ向かう。ヨット大国オーストラリア、さすがに手続きは早い。あっという間に税関出入国管理が終わってしまった。CYCAの藤田さんらには少し待ってもらいヨットで湾内クルージング、ハーバーブリッジを通りオペラハウスを海からいろんな角度でみて写真を取った。
10時 Crusing Yacht Club of Australia.CYCAに着いた。晴天でそれはカラットして暑い日だったが、ヨット赤城の内尾さんはじめ皆が歓迎してくれた。早速冷えたシャンパンで乾杯した。その夜皆でチャイナタウンへ食事をしに行ったが、なんと僕は過労で食べれずアパートに帰って寝てしまった。疲れていた、めいっぱい疲れていた。
1/31 さてこれからがレース準備の始まりだ。朝6時起き、マストを抜く。シドニー郊外のホエールスパーというマスト屋さんで新調することになっていた。ホエールスパーはあのウインドワードパッセージやオーストラリア2の設計にも携わっていた会社だ。全従業員は4人。それがまた本当にチームワークよく、いい仕事をしている。
船内は藤田さんがバルクヘッドの補強改修をはじめてくれた。この暑さで裸でいると削ったクロスが肌に突き刺さり痛い。船内の掃除、部品の手配。セールはシドニーのフレイザーセールに修理を頼むことにした。メインセールのカーシステムは、フルバテンのため何回も意見が交わされた。未だいいシステムはないようだ。
アパートの近くはキングスクロスといって飲み屋街だ。日本食から各国料理が楽しめる。バーベキュもうまい。ビールはフォスターズ。アパートで雑魚寝合宿。2/3 僕の家族が飛行機でやってきた。
2/4 船底をきれいにするため上架した。グアムで心配した船底の傷は大したことなく、セルドライブエンジンのカバーも付け直してうまくいった。カナダから来た同じくレースに出る、インカンテーションノデイビットと友達になった。ハーバーで各国のヨットマンと日本からヨットで来たと言うとすぐその話題で友達になれた。
1月30日シドニーに着いたCSK Bengal Uは早速、マストを抜き、上架し船底をきれいにした。シドニーのあるポートジャクソンはコマーシャルポートとは別になっており多くのプレジャーボートが走っている。フェリーの多さにもびっくりするが本船はほとんどいない。CYCAはシドニーホバートヨットレースの基地にもなっているところである。多くのビジターヨットも入ってくる。我々が着いたとき丁度、BOC世界一周シングルハンドレースの各艇がついていた。あのコーデンオケラの多田さんもみえた。ヨット大国オーストラリアでは、ヨット部品を売るチャンドラーはスーパー並に広く、いろんなものが売っている。おもしろかったのは耳の後ろに貼るscopという酔い止めの薬だ。海軍仕官の方も貼っているくらいだ。またboatbooks という海の本の専門店もある。
マストはWhale Sparというメーカーに頼んだ。日本で作るよりずっと安い。4人の従業員だか本当に熱心に作ってくれた。意外と仕事が早い。愛称アインシュタインが設計したマストはスプレッダーがパイプで軽量且つ丈夫で、安心して乗れた。セールも安い。いくつかのロフトがシドニーにある。ヨット用語は世界共通なので英語にそう困ることはなく綿密に話し合ってプランを決めて行った。セールはフレーザーセールに修理などを頼んだ。フルバテンのメインセールのラフのカーはまだいいシステムがないようだ。
オーストラリアは、日本と同じ左側通行右ハンドルなので車の心配は少ない。我々もレンタカーを借り移動した。日本人の観光客の他、現地でビジネスをやっている方も多く船食屋さん、寿司屋さんなど世話になた。
メルボルン大阪参加のヨットも集まりはじめた。ヨット赤城の内尾さんは、一番乗りしてシドニーを楽しんでいた。ヨットラッキーレディー、ヨットライカが入港した。また2月おわりにはヨットマリーナシティが入港してきた。皆はるばる日本から回航してきた。ライカはニュージーランドからだった。ライカの今給れさんが「こんな所までヨットでくる人はやっぱり病気の人たちですね。」って。自分もついこのあいだまでヨットで太平洋へ出ていく人は特別の人かと思っていた。
ポートジャクソン湾では、水曜日と金曜日の夕方レースがある。トワイライトレースと言って、その後バーベキュをしてたのしむのだ。月一度くらいの日本と比べ毎週に2回というのはすごい。マニュアルにその日のコースは決まっているて一年中のスケジュールが載っている。CSK Bengal Uも2/20トワイライトレースに参加、なんと日本人初の優勝をしてしまった。さい先のいい話だ。そのとき乗っていたのは20人!ヨットラッキーレディーの浅尾さん、ライカの今給れさん、松永さん、アラベスクのマーク、マストやさん、そして誰が連れてきたのか日本人の観光ギャル、..
2/21丹羽さんご夫婦を迎え、一緒にメルボルンをめざし出港した。
2/21シドニーを出港した。天気も良く北の風、フリーで調子がいい。22日昼にはEDENの沖、23日にはバス海峡にはいった。3時間ワッチで邨瀬氏と交代で行った。丹羽徳子さんが食事を作ってくれる。さすがに材料の使い方とタイミングがうまい。また味もおいしい。やっぱり食べないと元気はでない。
バス海峡は荒れてはいないがどんより曇ってときどき小雨、年中荒れて恐れられているが今回は無事通してくれる。オイルリグ、海底油田の火が不気味に見える。バス海峡の避難港をいくつか聞いてきたがどこえもよらずに通過した。ヨット赤城の入港していたウイルソンプロモントリーのリフューズケイブはそれはうつくしいところで、秘境だと後から聞いた。陸地から行く道はないが。
2/24、3日間と早いペースでポートフィリップ湾に取っついた。そのいりぐちのリップは潮の流れが早くも鳴門の渦潮のごとく渦がたくさん見られた。サンドリンガムヨットクラブSYCへは丁度夕日の中を入港した。ハーバーから入港するCSK Bengal Uの写真を取ってくれていた。それはすばらしい光景だったようだ。
ヨットライカはバス海峡でキールがもげそうになるし、赤城も悪天候で避難して遅くにSYCに着いた。ジャストラッキーレディの浅尾さんはワイルドジャイブで手の骨折をされるし、なかなかバス海峡は普通では通してくれない。僕らは東風でフリーとなりぶっとんで通過した。帰り、レースで東風ではたまったもんじゃないなと思いながら..ここは東か西しか吹かない。
オートパイロットが調子悪い、うねりにおお舵をひいてしまう。コンパスがうまく動かないのだろうか。舵引きがワンテンポ遅れるので具合が悪い。シドニーで予備に付けた12v系の新オーパイはうまく配線できておらず使えず。ショートハンドの時どうしてもオーパイは必要になる。人間が舵を引いた方が確実で早く走れるが、ちょっとなにかをするときもっていてくれると能率が全然違う。
SYCには続々とレース艇が各国より集まってきた。ここで安全検査をしてからメルボルンのビクトリアドッグへ行くのだ。
2/24夕方SYCへ無線連絡すると、メンバーの方が船を出してくれ誘導してくれた。CYCAと比べると田舎のハーバーという感じで、ジェティーも古く朽ち落ちそうな所もある。かもめか多く、糞害が激しい。しかし伝統のあるクラブで、それは日本ではみられない。
サンドリンガムはメルボルンcityより南へ30kmの町である。SYCに出入りしている、アメリカズカップ艇の船底もしたと言う塗装屋のボブ、電気関係ならトニー、など親身に整備を手伝ってくれた。もちろん前回出場された丹羽さんがいろいろ紹介してくれたりアドバイスしてくれたのは大いに助かった。各艇も整備に余念がない。レーダーを付けたり今回の流行はGPS、湾岸戦争であめりかのトリンブルGPSが玉薄でなかなか手に入らない。ソ連艇もJRCのGPSを付けていた。しかしまだまだサテナビのみの艇もあった。
安全検査は前回レースで事故があっただけに厳しかった。無線は実際シドニーのペンタコムスタットと交信せよとか、ガスのコックの前に元栓閉めよのステッカーを貼れだのこと細かった。
前回出場のMaxさんが家へ招待してくれたり、CSK Bengal 2の支援をしてくれた。またホエールスパーのジョンらも整備に手伝いに来てもらった。天気のいい日はポートフイリップで帆走練習をし、システムを改良したりした。セッティングを変えたり、リーフの手順を変えたり試行錯誤した。
SYCのいこごちがよく、長居をした。コミティは検査の終わった船からメルボルン市内のビクトリアドッグへ行くよう指示していたが。ABC、KAZI、オーストラリアンYachtingなどマスメディアがいろいろ取材に来る。
3月10日も過ぎると何となくあわただしくなってきた。レース前のパーティもあるし、最後の整備がいろいろある。学生時代のテスト前と同じで近づくといくらでもやることが浮かんでくるのだ。もっと軽量化、ランナウインチの補強。またオーストラリアの気象の勉強はメルボルンの気象台へ通った。毎日気象FAXをながめる。ナビゲーション機器の調整。食料のリスト、いらないものを降ろし日本へ小包。
ああせわしい、忙しい。つづく
1991.3.23.朝6:30に起きた。7時半アパートを出て、ビクトリアドッグへ。緊張してないと言ったらうそになる。そりゃあ不安も。8:30出港。なかなかメインが上がらない。二人で20mもあるマストにメインを上げるのは大変なことだ。スライダーがうまく動かない。もやいを解いたものの港の真ん中で漂っていたのでサポートの皆を心配させた。ヤラ川を下っていく。歌田さんのビーバーハウスはエンジントラブルで赤城に引っ張られている。ステーションピアのまえをパレード。サポート隊のみんな、妻、子供、ジョアンさんが桟橋から手を振ってくれる。マックスさんは自分の船で応援にきてくれた。応援のヨット、ヘリコプター、のなか10:30スタートした。
今日はデイレース。伊勢湾くらいの大きさのポートフィリップ湾。出口のリップが潮がきついため、レグをふたつにわけてある。今日はその1日目。南の風10ノット、陸から観戦できるよう陸近くのポイントを回るコースが設定されている。黄色のブイを回り、SYCの前へ。風も15ノットくらいになってきた。クローズだ。11:40バーンという音共にメインがズルッと落ちてきた。メイン張りが切れた。ケブラの外套が裂けたのだ。1ポイントリーフにして走った。6位くらいで走っていたが、トラブル復旧の間に各艇にはだいぶ抜かれてしまった。先が思いやられる。しかしいい練習になった。こうしてトラブルを直しながら日本までがんばらねば、と自分に言い聞かせた。
夕方リップ近くのライのヨットクラブで最後のパーティがあった。波切りはリコール、ラッキー&ラッピーが1位となったが、船外機、スクリュー、R&Bの座礁解消に付いてなど抗議が出て審問が続いた。さぁ明日は大阪への第2レグだ。友達になった各艇に最後の挨拶。See you again in Osaka! ライは海置き。テンダーがいるのでなかなか陸を往復できない。早く寝ることにした。
3月25日ポートフイリップ湾の出口のポートシーよりスタートする。快晴だ。お昼のスタートだが、喫水の深いL&L、波切り、ベンガルは少し後戻りして沖の燈台を回らないとスタート地点へ行けないので11時前にもやいを解いた。その燈台は茸のような形で木でできていた。横を通ると鳴き声がするので近づいてみると、下にあざらしがたくさんいた。
南の風10ノット、オーストラリアはもう秋だ。ちょっとひんやりする。昨日よりはすこしギャラリは少ないが、それでも何艇かのヨットやボートががんばれと声をかけてくれる。少し飛び出た桟橋で各艇の紹介をやっている、その前を機走でパレードした。妻や子供達ともしばらくお別れだ。妻は何枚も写真を撮ってくれた。帰ってから聞くとあのときはカメラで涙をかくしていたのだった。
14:15軍艦の号砲と共にスタート。黄色のブイを回りリップの外へ出た。今7位か、いいスタートが切れた。さぁ今からだ、レースは1ヶ月のロングレースだ。長い準備期間だった。悔いの無いようがんばろう。準備万端。今の所トラブルはない。
やがて取材のヘリコプタが帰っていく。42艇はもうバラバラになって行った。前評判通りL&L、波切り、ビーバーハウス 、ライカが前にいる。20ノットの向かい風、バス海峡はただでは通してくれぬ。夜が勝負だ。ペンギンパレード有名なフィリップ島の前でタック沖だしとした。
一夜明けると凪。なんとすぐ前にL&Lほか浮かんでいる。ここウイルソンプロモントリの沖合いはバス海峡のまっただ中で難所のはずだ。風はふれまくり、ライトジェノアからスピンの対象、非対象型まで上げたり下げたり、いい練習になった。午後になって東風が吹いてきた。インカンテーションとともに沖だししていくことにした。
16:30ロールコールが始まった。ペンタコムスタット局が朝の衛星アルゴスでキャッチした各艇の位置を放送、続いて各艇を呼出て現在地、乗員艇体の異常の有無を聞く。これを聞けば毎日順位がわかるのだ。朝は回航の時と同じ6:30にアマチュア無線で定時交信をした。キー局のJA2ATS平野さんの声はオーストラリア 沿岸まで強力に届き心強かった。
うねりがあるとどうもオーパイが酔っぱらったようになる。ハンドリングが確実だ。ワッチは3時間、3時間寝ては3時間起きる。食事、ナビゲーション、無線、FAXで天気図を取るなどワッチオフでも忙しい。1日2回充電のためエンジンを回した。
実は、レースはこのあとから大変でした。なんとスターターが壊れエンジンがかからなくなりました。電気のない生活となったのです。GPSも無線も使えません。頼みはバッテリー4本のみ。正真正銘、風だけの航海。サバイバルレースとなりました。
つづく